打下村(読み)うちおろしむら

日本歴史地名大系 「打下村」の解説

打下村
うちおろしむら

[現在地名]高島町勝野かつの

大溝おおみぞ城下の南にあり、南は滋賀郡鵜川うかわ村。民家の外れに小川があり、滋賀郡境である。かつては鵜川村は当村の枝郷で、白鬚しらひげ神社は当村に属したという(高島郡誌)。弘安三年(一二八〇)七月一三日の比良庄堺相論絵図(室町期の写、伊藤家蔵)に「打下里」とみえる。応安年中(一三六八―七五)には下小松との間で山境相論が起こり、幕府裁許により当村の主張が認められている(打下区有文書)。文明六年(一四七四)一二月九日の円明坊代宗海下知状(竹生島文書)では打下花田が竹生島ちくぶしま(現東浅井郡びわ町)へ寄進されたとあり、翌年正月からの毎月の樒納入が打下名主中に命じられた。永正一五年(一五一八)三月二〇日の二月九日四方所課役についての書上(居初文書)では、当地から五〇〇文(綱役か)を堅田居初家へ納めることとなっている。元亀二年(一五七一)佐和山さわやま(現彦根市)にいた磯野員昌とその士卒を高島郡に移すにあたり、明智光秀は当村の土豪林与次左衛門尉員清などの協力で、湖上を船で渡している(同文書)。翌三年浅井・朝倉氏の補給路を断つため、織田信長沖島おきのしま惣中(現近江八幡市)に対し、敵地浦々に火による攻撃をかけるので、早船三艘を出すこと、詳細は「林与二左衛門並堅田衆」と相談すべきことを命じている(六月二七日「織田信長朱印状」沖島共有文書)。当村を本拠とする林員清は輩下に水軍をもっていたと考えられる。員清は元亀元年の志賀の陣での緩怠を責められ、天正三年(一五七五)越前北庄きたのしよう(現福井県福井市)で成敗された(信長公記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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