佐和山(読み)さわやま

百科事典マイペディア 「佐和山」の意味・わかりやすい解説

佐和山【さわやま】

滋賀県彦根市の琵琶湖東岸にあり,標高約233m。かつては北麓に筑摩(つくま)江(入江内湖),西麓に松原内湖が広がり,東麓の鈴鹿山脈との間の狭小な地帯東海道(古代の東山道,近世の中山道)が走る要害の地。室町時代,近江佐々木氏一族が城館を構えており,1590年(天正18年)石田三成が佐和山城主となる。三成は同城を拠点に徳川家康追討の兵を挙げたが(関ヶ原の戦),敗れて捕らえられ,城も破却された。三成時代,城は本丸・二の丸・三の丸を有し,東海道側の谷筋にあたる篝尾(かげりお)を大手として堅固な土居と二重堀をめぐらしていた。また松原内湖側の搦手には三成の居館をはじめ,馬屋・城米蔵等が設けられており,東西両山麓には諸士の屋敷が点在し,城下町湊町を併設した要塞地をなしていた。現在,西麓には清凉寺竜潭寺・井伊神社・大洞(おおほら)弁財天堂など旧彦根藩主井伊家にゆかりの深い寺社が並ぶ。
→関連項目井伊氏

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐和山」の意味・わかりやすい解説

佐和山
さわやま

滋賀県北東部、彦根市(ひこねし)北部にある山。標高233メートル。かつては琵琶(びわ)湖の入江内湖、松原内湖が迫り、中山道(なかせんどう)などの街道が通る要害の地であった。中世末には丹羽長秀(にわながひで)、堀秀政(ほりひでまさ)、堀尾吉晴(よしはる)らの城砦(じょうさい)があった。1595年(文禄4)石田三成(いしだみつなり)が入って本格的な城を築いたが関ヶ原戦いで敗れた。1601年(慶長6)井伊直政(いいなおまさ)がこの地に封ぜられたが、土地が狭小で水利も悪いため、子の直勝のとき彦根城に移り、廃城となった。山地一帯には井伊氏による大洞弁財天(べんざいてん)堂や旧城郭の遺構が残っている。

高橋誠一

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐和山」の意味・わかりやすい解説

佐和山
さわやま

滋賀県中部,彦根市北部にある小山。標高 233m。西麓がかつての内湖にのぞむ要害地で,戦国時代,石田三成の居城があったが,関ヶ原の戦いで落城。現在は城跡,屋敷跡,武器庫跡などが残るのみ。西麓に大洞弁財天として知られる長寿院 (弁財天堂は重要文化財) ,龍潭寺などがある。

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世界大百科事典(旧版)内の佐和山の言及

【彦根[市]】より

…平安・鎌倉時代,彦根山中の彦根寺が観音験所として京畿一円に知られ,白河上皇はじめ宮廷人の参詣もみられた。1601年(慶長6)関ヶ原の戦の軍功によって,井伊直政が封地18万石で現在の市街地の北東方にある佐和山城主となったが翌年死去し,嫡子直継は彦根山へ築城を決め,03年より22年(元和8)の間工事を進め,以後井伊氏歴代の居城となった。 一方,城下町建設のため,古く三彦また三根の地と呼ばれた彦根,里根,長曾根の3郷を廃し,また芹川の付替え,尾末山(彦根山東端)の切崩し,四つ川水路の開通,湖沼の埋立てなどの諸工事を行った。…

※「佐和山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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