日本歴史地名大系 「鵜川村」の解説
鵜川村
うかわむら
永禄一一年(一五六八)と思われる一二月三日の青山小介書状(左右神社文書)に「鵜川三ツ村夫丸卅人、明日ぼう□持せ、旱天に可仰候」とみえ、織田信長の代官青山小介は当地で夫役徴発を行っている。元亀(一五七〇―七三)から天正(一五七三―九二)初年と考えられる当村および橋本村と
鵜川村
うかわむら
鵜川村
うかわむら
八郎潟の北に発達した台地の辺縁部に細長く連なる街村。北は
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「弐百九拾石六斗七升九合 鵜川村」とある。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に、一〇〇石と鉄鉋衆五名が記され、慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に「百拾弐石八斗四升 う河村」とあり、鉄炮衆四名、鑓衆八名が記される。「六郡郷村誌略」に「古城 寺の松山にあり、鵜川長右衛門といふ者居す、秋田実季家臣と云」とある。佐竹氏移封後、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に七一七石とある。
鵜川村
うがわむら
鵜川村
うかわむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報