鵜川村(読み)うかわむら

日本歴史地名大系 「鵜川村」の解説

鵜川村
うかわむら

[現在地名]竜王町鵜川

七里しちり村の東、橋本はしもと村の西の平野部にある。中央部を祖父そぶ川が天井川となって北流し、集落は同川堤の西側に位置する。地名の由来は鵜飼に関係するとの説もある。応安元年(一三六八)一〇月一八日の紛失状(左右神社文書)には「宇川」の兵衛入道道貞が署名している。永和元年(一三七五)一二月二七日の料足預状(同文書)にも「宇河迎殿」「宇河慈仏」などの名がみえる。

永禄一一年(一五六八)と思われる一二月三日の青山小介書状(左右神社文書)に「鵜川三ツ村夫丸卅人、明日ぼう□持せ、旱天に可仰候」とみえ、織田信長の代官青山小介は当地で夫役徴発を行っている。元亀(一五七〇―七三)から天正(一五七三―九二)初年と考えられる当村および橋本村薬師くずし村との山論で、柴田勝家が現状の凍結を指令している(年未詳「柴田勝家書状」同文書)


鵜川村
うかわむら

[現在地名]能都町鵜川

山田やまだ川河口に位置し、北は七海しつみ村。村内を内浦街道が通り、北端に内浦に臨む小倉おぐら崎がある。「能登志徴」は山田川下流が鵜川とよばれたことを村名由来とする。中世の鵜川村・鵜川保は当地付近に比定される。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「鵜川村」とみえ、公田数は旧来二三町二段二であったが、当時二町八段三に定められていた。応永一八年(一四一一)四月三日、能登守護畠山満慶は「鵜川保」が諸橋もろはし(現穴水町)のうちか否かについて幕府に答申している(「畠山満慶請文写」吉見文書)。享禄五年(一五三二)五月の穴水村・諸橋六郷長衆交名案(諸橋文書)に、諸橋六郷衆として「う川」の藤兵衛の名がみえる。天文元年(一五三二)七月の諸橋六郷・南北棟数注文写(諸橋稲荷神社文書)によると、鵜川村で棟役を負担する役屋は九四間とある。


鵜川村
うかわむら

[現在地名]八竜町鵜川

八郎潟の北に発達した台地の辺縁部に細長く連なる街村。北は浅内あさない(現能代市)、西は浜田はまだ村、東は森岳もりおか(現山本町)、南は富岡新田とみおかしんでん村・久米岡新田くめおかしんでん村に接する。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「弐百九拾石六斗七升九合 鵜川村」とある。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に、一〇〇石と鉄鉋衆五名が記され、慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に「百拾弐石八斗四升 う河村」とあり、鉄炮衆四名、鑓衆八名が記される。「六郡郷村誌略」に「古城 寺の松山にあり、鵜川長右衛門といふ者居す、秋田実季家臣と云」とある。佐竹氏移封後、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に七一七石とある。


鵜川村
うがわむら

[現在地名]小松市鵜川町

かけはし川上流右岸、河道が屈曲する地点の山間部にあり、村内を梯川支流の仏大寺ぶつだいじ川が西流する。北は立明寺りゆうみようじ村。宇河・鵜河とも記し、「うかわ」とも発音する。「源平盛衰記」巻四(涌泉寺喧嘩事など)によれば、安元二年(一一七六)八月加賀国司藤原師高の弟で目代の師経が、白山中宮八院の一つ、当村の涌泉ゆうせん寺と紛争を起こして寺を焼払った。これに対し白山中宮三社と八院の衆徒らは国衙を襲撃し、目代師経は京都へ逃亡した。衆徒らはさらに本寺にあたる延暦寺に神輿を奉じて訴え、翌三年四月まで山門衆徒による師高・師経兄弟の処罰を求める強訴が繰返された。兄弟は流罪となったが、天台座主明雲の配流と衆徒による奪還という事件も招いた。


鵜川村
うかわむら

[現在地名]高島町鵜川

琵琶湖畔にあり、滋賀郡に属する。北は高島郡打下うちおろし村、南は北小松きたこまつ(現滋賀郡志賀町)。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に定請鵜川とあり、高一五〇石。元禄郷帳に高二五四石余とあり、膳所藩領と白鬚しらひげ大明神領。天明村高帳では高一八九石余ですべて白鬚大明神領。文政石高帳では高四八一石余、うち山城淀藩領二九二石余・白鬚大明神領一八九石余。天保郷帳の高四八三石余。高免であったため、寛政元年(一七八九)には二回の火災と悪作続きのため、免を五ツ五分に下げるよう訴えている(鵜川区有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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