放生津町(読み)ほうじようづまち

日本歴史地名大系 「放生津町」の解説

放生津町
ほうじようづまち

富山湾に臨み、南側を東西にうち(東内川・西内川)が流れる。東内川と西内川が合流して富山湾に注ぐところを湊口みなとぐちと称し、同地を境にして東放生津と西放生津(古新町)に分れる。湊口は正保四年(一六四七)の「越中道記」に「舟渡湊口」とあり、深さ三―四尺、漁船が出入りするとある。南東荒屋あらや村に接し、東内川を隔て法土寺ほうどうじ村、南は放生津新町および三日曾根みつかそね村・四日曾根よつかそね村で、西放生津に接して長徳寺ちようとくじ村・さんしん村・六渡寺ろくどうじ村が連なる。町内を東西に浜往来が通り、海老江えびえ村まで三〇町、六渡寺村まで一八町(越中道記)。嘉暦三年(一三二八)奈呉なご(奈古)から放生津に改称されたと伝え(楢葉越栞)、放生津の地名の由来として、放生会にちなむとする説のほか、古代条里制の北条にちなむとする説などがある。中世から政治都市および港湾都市として繁栄し、近世にも廻船業と漁業で栄えた。正保郷帳では放生津村として高六四二石余、田方二八町四反余・畑方一四町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では放生津町として草高七一八石、免五ツ五歩、網役八二七匁余(ほか八八六匁余退転)、川役三〇目、外海舟櫂役二貫九八二匁(うち一貫二三六匁出来)・猟船櫂役七七五匁(ほか二三七匁退転)、小舟役一四一匁、釣役三六四匁(ほか六六匁退転)で、ほか地子銀五五匁・三歩半口銭二二五匁余がある(三箇国高物成帳)。延宝八年(一六八〇)に検地が実施された(新湊市史)。寛保二年(一七四二)の草高五八二石余(「高免等書上帳」折橋家文書)。文政八年(一八二五)は倉垣組、天保一〇年(一八三九)以降は大袋組に所属。

〔町の様子〕

文禄五年(一五九六)四月一〇日の前田利長判物(上埜家文書)によれば、利長は当地などの檜物師に対し、京都番を懈怠なく勤めるよう命じている。慶長一四年(一六〇九)利長による高岡築城に際し、当地などから多くの者が同城下に移ったとされる(「高岡町由緒聞書」高岡市立図書館蔵)。同一七年には利長の知行地として年貢米三六〇石余を金納したという(新湊市史)。当地の鍛冶職は諸役を免じられていたが、寛永一九年(一六四二)分から課せられることになり、鍛冶職の弥三郎と六蔵は居屋敷各七〇歩の拝領を願出ている(同二〇年「願書」細磨家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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