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文侯 ぶんこうWén hóu

世界大百科事典 第2版の解説

ぶんこう【文侯 Wén hóu】

?‐前396
中国,戦国初期のの君主。在位,前445‐前396年。桓子(かんし)の子で名は斯(し)(一説に都という)。彼の在位中に魏は趙・韓とともに諸侯に列せられた。みずからは孔子の高弟子夏に師事し,段干木賓客とし,また西門豹(せいもんひよう)を鄴(ぎよう)の令に任命して灌漑事業を行わせ,法律家李悝(りかい)の意見をいれて農業生産力の増強につとめた。一方,軍事面でも呉起や楽羊(がくよう)を将軍に起用して領土拡大をはかるなど,諸国に先がけて富国強兵策を実行し,魏を戦国初期における第一の強国に発展させた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

文侯
ぶんこう
(?―前396/386)

中国、戦国魏(ぎ)の君主(在位前445/424~前396)。字(あざな)は斯(し)、都。知伯を滅ぼした晋(しん)の魏桓子(ぎかんし)の孫。紀元前403年、周の威烈王(いれつおう)の時代、韓(かん)、趙(ちょう)とともに晋から独立して諸侯に列せられた。儒家の子夏を師とし、賢者の段干木(だんかんぼく)を客とし、有能の士を登用して賢君の誉れが高かった。西門豹(せいもんひょう)による灌漑(かんがい)事業、李(りかい)による法典編纂(へんさん)、農業生産力の増強、穀物価格の安定などで国内の中央集権化を推進し、外には呉起や楽羊を用いて中山、斉(せい)、秦(しん)、楚(そ)を討った。文侯の富国強兵策により、魏は戦国初期における強国の一つとなった。[田中柚美子]

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世界大百科事典内の文侯の言及

【魏】より

…前453年韓・趙と知氏を滅ぼして晋を三分,前403年周王より独立を認められ,安邑(山西省夏県)に都を置いた。文侯は政治を改革し,戦国初期第一の強国となり,境域を拡大した。文侯死後,秦の攻撃を受け,都を大梁(河南省開封市)に遷し,国を梁とも称した。…

【春秋戦国時代】より

…北方の大国晋でも,韓,魏,趙,知,范,中行の6氏が強大となり,晋侯の力は失われ,前453年に,韓,魏,趙の3氏が晋を分割し,前403年に周王より正式に諸侯と承認され,また斉では陳からの亡命大夫田氏が斉侯を凌駕し,前386年には完全に国を奪い,斉侯として周王に認められた。 しかし,韓,魏,趙は,周王の承認以前から独立の諸侯として行動し,とくに魏は戦国初期の強国として台頭し,文侯(在位,前445‐前396)は,従来の身分制を打破して,実務政治家を官吏として登用し,後述のごとく富国強兵に努め,陝西北東部まで領土を拡大した。しかし西方の秦が魏の進出を阻止したので,東に力を向け,都も安邑(山西省解県)から大梁(河南省開封)にうつし,前354年に趙の都邯鄲(河北省邯鄲)を攻め,前343年には南の韓に侵攻したが,いずれも救援の斉に敗れ,以後勢を失うにいたった。…

【段干木】より

…段干は魏の地名で,それを姓とした。田子方,呉起らとともに,孔門十哲の一人子夏に師事したが,同門の諸士と異なり仕官を好まず,仕官を勧めに訪れた魏の文侯(在位,前445‐前396)を避けて牆(かきね)を乗り越えて逃れたという逸話がある。文侯は終始その賢者なるをたたえ,彼の住む村の門前を通り過ぎる際には必ず車上に身を伏せて敬意を表したという。…

※「文侯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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