朝日日本歴史人物事典 「文智女王」の解説
文智女王
生年:元和5.6.20(1619.7.30)
江戸前期の皇女。円照寺開山。後水尾天皇の第1皇女。母は御与津御寮人。幼称は梅宮,のち沢宮。その出生は徳川秀忠の娘和子(東福門院)の入内を目前にしていた幕府を刺激し,朝幕間に大きな波紋を生んだ。寛永8(1631)年鷹司教平 に嫁したが,3年後に離縁。同17年父後水尾上皇が帰依していた禅僧一糸文守について得度し,大通文智と称した。以後一糸に深く帰依し,晩年には一糸開山の霊源寺の行末を案じるほどであった。洛北修学院に庵室(のち円照寺)を設けたが,のちに大和国添上郡八島村(奈良市八島町)に移し,さらに現在地(同市山町)に移転した。東福門院の配慮により寺領200石を得た。なお円照寺は明治初年まで比丘尼門跡に列した。<参考文献>末永雅雄・西堀一三『文智女王』,熊倉功夫『後水尾院』
(久保貴子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報