マウリッツ(読み)まうりっつ(英語表記)Maurits van Oranje

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マウリッツ」の意味・わかりやすい解説

マウリッツ
まうりっつ
Maurits van Oranje
(1567―1625)

オランダ連邦共和国の総督。ナッサウ伯。1618年以後オラニエ公。オランダ独立の指導者オラニエ公ウィレム1世の子として生まれる。暗殺された父の後を継いでホラント州をはじめ諸州の総督、最高軍司令官に任命された。ライデン大学数学者ステフィンSimon Stevin(1548―1620)に数学を学び(1583~1584)、戦術の基礎とした。スペイン軍に占領されていた東部、南東部の諸都市を次々に奪回し、ことにニウポールトの勝利により名戦略家としてヨーロッパに名声を馳(は)せた。1609年、共和国の政治を指導したオルデンバルネフェルトJohan van Oldenbarnevelt(1547―1619)がスペインとの休戦条約を締結すると、対スペイン戦争の継続を望むマウリッツはこれに反対し、1618年クーデターを起こしてオルデンバルネフェルトを逮捕、翌1619年裁判にかけて処刑した。政敵を倒して共和国の最高権力者になったが、州分権主義を克服することはできなかった。

[栗原福也]

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改訂新版 世界大百科事典 「マウリッツ」の意味・わかりやすい解説

マウリッツ
Maurits
生没年:1567-1625

オランダの総督。ウィレム1世次男で,ナッサウ伯,オラニエ公(1618年以後)。1584年父の死後国務評議会議長に就任,85年ホラントゼーラント,89年オーフェルアイセル,90年ユトレヒト,91年ヘルデルラント,1620年フローニンゲンの各州総督を兼ねた。その間1590年ユトレヒト同盟の陸海軍総司令官に就任,古代ローマの戦術の研究に基づいて軍隊の再編整備につとめ,同盟諸州からスペイン軍を駆逐してオランダ共和国の基礎を築いた。1600年ニウポールトNieuwpoortでも勝利したが,以後はスペインの勇将スピノラAmbrogio Spinola(1569-1630)の反撃に阻まれた。〈十二年休戦条約〉期(1609-21)に,〈厳格カルバン派(ホマルス派)〉を支持して,〈アルミニウス派〉と結ぶホラント州議会と対立,その指導者オルデンバルネフェルトを逮捕(1618),翌年処刑した。しかし政治的手腕に欠けて国家統一強化の機会を逸し,戦争再開後は軍事的にもふるわず,暗い晩年に終わった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マウリッツ」の意味・わかりやすい解説

マウリッツ
Maurits van Oranje

[生]1567.11.13. ディレンブルフ
[没]1625.4.23. ハーグ
オランダ (ネーデルラント) 連邦共和国総督 (在任 1584~1625) 。オランニェ公,ナッサウ伯。ウィレム1世 (沈黙公)の次男。 1584年父が暗殺されると,若くしてホラント,ゼーラントなどの総督に任命され,J.オルデンバルネフェルトの後見のもとに共和国をスペイン軍の侵略から解放した。その軍事的才能は全ヨーロッパに知られ,たびたびスペイン軍を破って,1609年スペインとの間に 12年間の休戦を実現し,共和国の事実上の独立に成功。 18年和平派のオルデンバルネフェルトとの対立が激化し,クーデターによって彼を捕え処刑し (19) ,共和国最高の権力者になった。なお,彼は 1612年日本に使節を派遣して徳川家康ポルトガルの密謀を告げる書を託し,以後の日本とオランダの関係の端緒を開いた。

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百科事典マイペディア 「マウリッツ」の意味・わかりやすい解説

マウリッツ

オランダの軍人,政治家。ウィレム1世の子。軍事的才能にすぐれ,1590年ユトレヒト同盟の指揮官となり,八十年戦争(オランダ独立戦争)でスペイン軍を撃破。1618年以後総督として内治に努め,対スペイン戦を続けた。

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世界大百科事典(旧版)内のマウリッツの言及

【オラニエ=ナッサウ家】より

…ウィレム1世は若くしてドイツ皇帝カール5世の側近として将来を期待されたが,のちにオランダ共和国独立の指導者となり,オランダ諸州の総督に就任し,建国の父として記憶される。ウィレムが暗殺されると,その子マウリッツさらに弟フレデリック・ヘンドリックが総督職を継ぎ,対スペイン独立戦争を指導した。17世紀中葉,オランダの国力,経済,文化は絶頂に達し,オラニエ=ナッサウ家はヨーロッパ諸国の王室,大貴族と姻戚関係を結び,ハーグにある総督官邸は宮廷のような栄光につつまれた。…

【オランダ共和国】より

…しかし,執政パルマ公の率いるスペイン軍はユトレヒト同盟に参加した南部の諸都市を征服し,さらに北部諸州を攻略し,84年オラニエ公は暗殺された。ウィレム亡きあと,オルデンバルネフェルトは連邦議会を舞台に北部諸州の団結に心を砕き,オラニエ公の若い息子マウリッツは軍事総司令官として,スペイン軍の占領した諸都市を次々に奪回した。こうして共和国は95年ごろまでに,7州のほぼ全領域を解放して実質的な独立を達成し,1609年スペインと12年間の休戦条約を締結した。…

【八十年戦争】より

…しかし85年以降のイギリスの軍事援助もエリザベスの寵臣レスター伯の失態で実を結ばず,その結果として88年孤立無援の中で議会主権の〈ネーデルラント連邦共和国〉が事実上誕生した。オラニエ公の遺児マウリッツは軍を再編整備して90‐97年に北部諸州からスペイン軍を駆逐し,やがてスペインの勇将スピノラA.de Spínolaの反撃にあって,1609年スペインとの間にひとまず〈十二年休戦条約〉が結ばれた。21年再開された戦争は三十年戦争の一環として遂行され,35年総督フレデリック・ヘンドリックはフランスと攻守同盟を結んだが,総督の死後48年,都市貴族層の主導でスペインとの間にミュンスターの講和(ウェストファリア条約)が成立した。…

※「マウリッツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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