円照寺(読み)えんしようじ

日本歴史地名大系 「円照寺」の解説

円照寺
えんしようじ

[現在地名]御所市御所寺内町

葛城かつらぎ川の右岸、東御所ひがしごせの中央に位置する。東向山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。御所御坊と称し、京都西本願寺大和五ヶ所御坊の一つ。寺伝によると、開基笑雲は御所の旧領主であった桑山氏の一門である河内国横小路よこしようじ(現大阪府東大阪市)の桑山治太夫の弟で、もとは源吾と称していたが、出家して笑雲と名乗り禅門に入って達磨だるま(現奈良県王寺町)に住していた。晩年になって本願寺証如に帰依し、天文一五年(一五四六)当地に至って浄徳じようとく(常徳寺)という浄土真宗の寺院を創建したという。


円照寺
えんしようじ

[現在地名]入間市野田

入間川北岸、西武池袋線元加治もとかじ駅の南東方にある。光明山と称し、真言宗智山派、本尊は阿弥陀如来像。寺伝では平安初期弘法大師が霊泉を加持して堂宇を建立したのに始まるという。丹党加治氏の菩提寺とされる。丹党高麗経家の次男家季は加治かじ郷に居住し加治二郎と称した(「丹党系図」諸家系図纂)。家季は鎌倉幕府御家人として元久二年(一二〇五)六月二二日安達景盛に従い二俣川合戦に出陣し、畠山重忠と戦い討死した(吾妻鏡)。家季の菩提を弔うために子の家茂と円照が建立した一寺が当寺であるとも伝える。東京都青梅市安楽あんらく寺蔵の大般若経巻第一〇三奥書に貞治二年(一三六三)春三月「於野田円照悦衆寮書之」、同巻第一〇四奥書には同年四月初吉「於武州野田不動山円照寺悦衆寮書之」などとある。


円照寺
えんしようじ

[現在地名]奈良市山町

やま町の東方にあり、俗に山村やまむら御殿とよばれる。普門山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は如意輪観音。開山は後水尾天皇の第一皇女の梅宮(文智女王)法華ほつけ(現奈良市)中宮ちゆうぐう(現奈良県斑鳩町)と並ぶ大和三門跡寺院の一つ。寛永一八年(一六四一)文智女王が修学院しゆがくいん(現京都市左京区)に草庵を結んだのち、明暦二年(一六五六)八島やしま(現奈良市)に移し、さらに寛文九年(一六六九)に山村に寺地を定めた。寺領三〇〇石(元禄郷帳)住持は七代まで皇族によって継がれ、なかでも伏見宮文秀女王(福貴宮)は書道に秀でていたといわれる。


円照寺
えんしようじ

[現在地名]吹田市山田東三丁目

伊射奈岐いざなぎ神社の北東丘陵上にある。真言宗、円満山普門院と号し、本尊千手千眼観音。寺伝によれば、文徳天皇の勅願で仁寿三年(八五三)慈覚大師円仁が草創、本尊は円仁の自作という(摂陽群談)。同天皇は厄除開運を祈り、念持仏の十一面観音を寄進し、陽成天皇は病気回復を祈り、日光・月光両菩薩像を本尊の脇侍として寄進安置したという。また寛平六年(八九四)山城醍醐寺の聖宝が入寺、以後真言の道場となり、聖宝は護摩堂に不動・毘沙門の二像を安置した。寺坊は広く山田やまだ全域に建てられたが、室町中期まで円実えんじつ坊・十地じゆつち坊など一〇余の僧坊があり観音堂・奥院に奉仕していた。


円照寺
えんしようじ

[現在地名]氷見市中央町

毫光山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。射水いみず柿谷かきなや村円乗寺という真言宗寺院であったが、明宗の代に浄土真宗に帰依し、天文一〇年(一五四一)に円照寺と改号したという(貞享二年寺社由緒書上)。それを証するように、同年一〇月に本願寺一〇世証如より本尊を下付されている(寺蔵)。また永禄七年(一五六四)の本願寺番銭帳(長光寺文書)では「柿屋」として三〇〇文を負担している。


円照寺
えんしようじ

[現在地名]小浜市尾崎

尾崎おざきの西南山麓にある。山号地久山、臨済宗南禅寺派。本尊阿弥陀如来。伝承では真言宗で遠松えんしよう寺と称し、みなみ川を渡った大日だいにち山の山裾谷あいの小字堂谷どうだににあったが、洪水と山崩れで破壊され、文安元年(一四四四)現在地へ移された。その後荒廃したが、越前杣山そまやま(現福井県南条町)城主瓜生氏の女慶智尼の発願で再建され、臨済禅に改宗、円照寺に改めたという。


円照寺
えんしようじ

[現在地名]横須賀市走水二丁目

走水はしりみずのほぼ中央に位置し、東光山と号し、日蓮宗、本尊は三宝祖師。開山の日海は応永三〇年(一四二三)に没したという。境内に幕末海防のため当地で没した会津藩士の墓六基、川越藩士の墓一基がある。文政五年(一八二二)村の漁師が海中より拾い上げた、写経を封入した古鐘が伝えられる。写経は妙法蓮華経二軸で「元徳二年庚子八月七日同八日彼岸中日供養 可奉納竜宮以鐘 願主沙弥了性」の奥書があり、筆跡および鐘の年代も鎌倉期を下らないという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「円照寺」の意味・わかりやすい解説

円照寺 (えんしょうじ)

奈良市にある臨済宗妙心寺派の尼寺。山号は普門山。別称は山村御殿。本尊如意輪観音。後水尾天皇の皇女梅宮は13歳で鷹司教平に嫁し,3年後に離別されて父帝のもとにかえった。薄幸の梅宮は,臨済の名僧一糸文守(いつしもんじゆ)に深く帰依し,尼僧となった。文智(ぶんち)なる法号と大通(だいつう)の号をうけ,修学院離宮のかたわらに円照寺という庵を結んだ。その後,文智は1656年(明暦2)に庵を大和の八島村に移し,さらに69年(寛文9)山村(やまむら)に移した。いまの円照寺がこれである。そして,文智は97年(元禄10)数奇な生涯を当寺で閉じた。こののち,住持は7代まで皇族が入寺し,法華寺や中宮寺とともに世に大和の三尼門跡寺院と数えられるようになった。寺宝としては重要文化財の大和国帯解山村廃寺の出土品のほか,皇室ゆかりの寺にふさわしく,後陽成天皇以下の宸翰しんかん)や消息文や調度品,それに将軍綱吉の生母の桂昌院の珍しい自筆消息文がある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「円照寺」の意味・わかりやすい解説

円照寺
えんしょうじ

奈良市山町(やまちょう)にある尼門跡(あまもんぜき)寺院。普門山と号し、臨済(りんざい)宗妙心寺派に属す。1641年(寛永18)後水尾(ごみずのお)天皇の皇女である深如海院宮(しんにょかいいんのみや)(梅宮(うめのみや)文智女王)が出家して京都東山修学院(しゅがくいん)に庵室(あんしつ)を結んだが、55年(明暦1)八島(やしま)村に移し、さらに69年(寛文9)に現地に移建した。それ以来、皇女が住持を継いだので、俗に山村御所(やまむらごしょ)または山村御殿(ごてん)といわれるようになった。梅宮女王によって華道山村御流(おんりゅう)が始められ、現在も4月の第2日曜に仏前への奉華(ほうげ)会が行われている。

[菅沼 晃]

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