文珠寺村(読み)もんじゆじむら

日本歴史地名大系 「文珠寺村」の解説

文珠寺村
もんじゆじむら

[現在地名]大山町文珠寺

熊野くまの川左岸の谷口の低位段丘上にあり、湧水が多く湿田地帯である。北の対岸上滝かみだき村・中滝村・花崎はなさき村、西は黒牧くろまき村、東は西小俣にしおまた村。通称東文珠寺村。「伊呂波字類抄」十巻本などによれば、立山開山の慈興の師薬勢は本宮ほんぐう村を拠点として、北に光明こうみよう(説法ヶ原)を建て、遥か北方熊野川畔に報恩ほうおん寺を開いたとする。報恩寺は本尊文殊菩薩とし、文珠寺ともよばれ、これが地名となったという。村内には数多くの坊名を伝えると思われる地名が残る。郷村名義抄(越中志徴)によれば「此所に往古武部之文珠と申霊仏之七堂伽藍有之、一院三十坊御座候。寺号を文珠寺、院号を宝寿院と唱」と記している。

文珠寺村
もんじゆじむら

[現在地名]大山町大栗おおぐり

東は小原屋おはらや村、南は上大浦かみおおうら村、北は田畠たばたけ村。加賀藩領文珠寺村の出村で、西文珠寺村と通称される。万治三年(一六六〇)の富山藩領再編成以前に文珠寺村からの出作が定着し、富山藩領文珠寺村となったと思われる。延宝六年(一六七八)の加賀・富山両藩の境塚記録(加越能文庫)には「大蔵大輔御領、文珠寺出村」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報