新居宿(読み)あらいしゆく

日本歴史地名大系 「新居宿」の解説

新居宿
あらいしゆく

[現在地名]新居町新居など

浜名湖西岸の湖畔に位置し、東は今切いまぎれ渡によって舞坂まいさか宿(現舞阪町)と結ばれ、北は中之郷なかのごう村、南西橋本はしもと村、西は内山うちやま村。東海道五十三次の一で、江戸から三一番目の宿。舞坂宿に一里半、白須賀しらすか宿(現湖西市)に一里二四町(宿村大概帳)。新居関所・今切湊が置かれた交通の要地。荒井・新井などとも記された。もとは大元屋敷おおもとやしきとよばれる地域(現在の通称港町)にあったが、元禄一二年(一六九九)の暴風雨被害により新居関所と宿場の一部が同一四年に西方藤十郎とうじゆうろう(中屋敷)に移転、さらに宝永四年(一七〇七)の大地震(宝永地震)の翌年には宿場全体が現在地(もと弥太郎新田の地、一部橋本村・内山村・中之郷村にも及ぶ)に移転した。慶長六年(一六〇一)宿駅に指定されて以来、宿関係史料には宿の呼称が使用されたが、郷帳類には新居村とみえる。しかししだいに町場化が進み、一七世紀末頃から新居町あるいは新居宿の呼称となった。

〔古代・中世〕

天平一二年(七四〇)一一月二〇日の浜名郡輸租帳(正倉院文書)にみえる新居郷の遺称地とも考えられる。「万葉集」巻一に高市連黒人の歌として「何処にか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟」、巻一二には「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ」の歌があり、安礼の崎・荒藺の崎を当地にあてる説がある。

明応東海地震などにより浜名湖と遠州灘を結ぶ今切が形成されると、東対岸に位置する舞坂との間に中世東海道の渡船場が置かれ、橋本宿に代わる交通上の要衝となり、湊および関所の機能も有した。文明一二年(一四八〇)六月、太田道灌が上洛の途、「あらゐの浜にて」、「吹風に波もあらゐの磯の松木陰涼しき旅の空哉」という歌を詠んでいる(平安紀行)。弘治三年(一五五七)三月一〇日、山科言継が駿河から帰洛する時に、今切渡を過ぎて新居里宿に至ったが、風雨が強いため逗留している(言継卿記)。永禄五年(一五六二)二月二四日、今川氏真は宇布見うぶみ(現雄踏町)の中村氏の船二艘に対し、今川氏の命で運送をする際には村櫛むらくし(現浜松市)と「荒井」に寄港することなく航行すべきことを命じ、船頭・櫓手の粮米・荷物以下諸役を免除している(「今川氏真判物」中村文書)。この頃新居では関銭(通行税)を徴収していた(永禄六年九月九日「今川氏真判物写」同文書)。同一一年三月一六日、駿府から紀州熊野への最花銭二一〇貫文を積んだ舟についての指示が「新居渡并湊」の奉行中に出されている(「礼豊書下」熊野夫須美神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新居宿の言及

【新居[町]】より

新居関の跡は関所建物として現存する全国唯一のもので,特別史跡に指定され,1976年関所史料館が開設された。【萩原 毅】
[新居宿]
 遠江国の東海道宿駅の一つ。新居関の所在地として著名。…

※「新居宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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