新沼浦(読み)にいぬまうら

日本歴史地名大系 「新沼浦」の解説

新沼浦
にいぬまうら

昭和一五年(一九四〇)までの干拓工事によって消滅した潟湖。藩政期には原釜はらがま村・新沼村石上いしがみ村・塚部つかのべ村・長老内ちようろううち村、および仙台藩領のこまみね村・今泉いまいずみ(現新地町)に囲まれた東西約八町・南北約三〇町の藩境の潟湖で、太平洋に臨む原釜村と今泉村の境界の原釜村寄りに三〇間ほどの海口があった。浦内では漁業が行われ、鰻・鯔・鰕などがとれたが、そのための舟が明治九年(一八七六)には新沼村に二二艘(長さ二間が二一艘、長さ一間が一艘)石上村に七艘(長さ二間)、塚部村に三〇艘(長さ二間)長老内村に一四艘(長さ二間)あった(宇多郡村誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新沼浦」の意味・わかりやすい解説

新沼浦
にいぬまうら

福島県北東部,相馬市街地の北東新沼付近にあった旧潟湖。明治中期まで塩田が開かれ,海塩を生産していたが,1905年の専売法実施により廃田。 20年岐阜出身の山田貞策は県内の吉野周太郎らと相馬干拓耕地整理組合を組織して,干拓工事に着手。約 15年の年月を要して開田に成功した。現在は東側の原釜海岸とともに工業団地が建設されている。

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