新波村
につぱむら
[現在地名]藤岡町新波
南東を与良川、北西は巴波川がともに南西へ流れる。巴波川対岸は部屋村、与良川対岸は生井新田・上生井村(現小山市)。巴波川左岸の低湿地で、河岸段丘および水塚上に集落がある。永禄三年(一五六〇)一一月二六日の小山高朝安堵状(岩上文書)に「寒河郡之内新葉郷」とあり、寺社を除く新葉郷が岩上伊勢守に安堵されている。中世には寒川郡に属していたと考えられる。近世は初め榎本藩領で、文禄四年(一五九五)の榎本藩領村高書上(大出善作文書)では新羽村、二三一石余がみえる。
新波村
あらわむら
[現在地名]雄和町新波
雄物川左岸、南に碇田村・神村、北は川を隔てて向野村と接する。
慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に大正寺郷の一村として記され、寛永二年(一六二五)の高は四〇四石余、免五ツ五分(油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写)。その後正保三年(一六四六)に高は二三五石と急減している(出羽国油利郡内高目録)が、洪水による雄物川河道の変化によるものと思われる。出羽国油利郡内高目録に「川有、旱損所」とあるが、村の東に大堤(東西二町三〇間、南北一町、周囲五町三二間)を築造、明和九年(一七七二)には高三六〇石、家数五〇軒になり(「村絵図」雄和町郷土資料館蔵)、天保郷帳には四四九石九升八合と旧に復している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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