新紺屋町(読み)しんこんやまち

日本歴史地名大系 「新紺屋町」の解説

新紺屋町
しんこんやまち

[現在地名]甲府市武田たけだ一―二丁目・北口きたぐち二丁目

甲府城の北に位置する町人地で、上府中二六町の一町。二ノ堀の北に並行した東西の町で、東は元城屋もとじようや町角から一丁目、元連雀もとれんじやく町、次いでたつ町と交差して二丁目・三丁目となり、西端は白木しろき町と接する。町名は先に成立していた古紺屋(元紺屋)町に対するもので、紺屋職人の居住にちなむ。慶安三年(一六五〇)の府中伝馬人足割帳(県立図書館蔵)には「新こんや町」とみえる。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(同館蔵)によると、北側の二六六間に対し南側が一八八間半であるのは三丁目が南側は武家屋敷で片側町となっているためである。役引七町の一つで、甲府藩の時代には城下の紺屋役引屋敷六八軒のうち四三軒が当町にあり、役引職人一軒に一人、一年に二四人ずつ染物御用を勤め、一日に一人米七合五勺の扶持のほか藍代が支給されていた(享保九年「甲府町方並寺社諸品申送帳」若尾資料)


新紺屋町
しんこんやまち

[現在地名]高崎市新紺屋町

城郭の北東寄合よりあい町の北に延びる町。東は九蔵くぞう町・町で、西は武家屋敷、北は九蔵町・嘉多かた町。町の由来は不明であるが、箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)より移り、紺屋が多かったためすでにあった元紺屋もとこんや町に対して新紺屋町と名付けたという(「高崎志」など)。「高崎寿奈子」によると西側一町二三間一尺、東側一町一九間九尺。名主沢田善十郎・小林善兵衛。地子銭は一五貫九五六文で(文化年間「高崎藩町方式」西尾市立図書館蔵)、屋敷は二六軒半であった(安政三年「町割古記録控」高崎市立図書館蔵)。安政三年(一八五六)城下図では四一戸が描かれ、明治維新まで四戸の紺屋があった(更正高崎旧事記)


新紺屋町
しんこんやまち

[現在地名]大和郡山市新紺屋町

紺屋町の枝町であるが、地子免除の内町に入る町方

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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