新興屋村(読み)あらこうやむら

日本歴史地名大系 「新興屋村」の解説

新興屋村
あらこうやむら

[現在地名]松山町成興野なりこうや

成沢なりさわ村の南東にあり、北は出羽山地、南は最上川を境に清川きよかわ(現東田川郡立川町)。寛文三年(一六六三)の御替地村々之覚(大泉紀年)には荒興屋村とみえる。慶長年間(一五九六―一六一五)かめさき(現酒田市)城主志村伊豆守が最上川舟運の船着場として立村。酒田より当村までの道路を整備し、船四艘をおき、上下船の手形改を行った(鶏肋編)。慶長一七年進藤但馬が記した道中路銭帳(大泉叢誌)によれば、当村から岩清水いわしみず(現最上郡戸沢村)まで直接舟行している。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一石余、同一〇年の検地帳(新興屋区有文書)では高六九石余、うち田二五石余・畑四三石余、名請人三六、うち屋敷持三一。名請人に対馬(九反余)式部(七反余)、宇左衛門(七反余)などの名がみえる。村方の検地立会人は与三郎と三二郎。天保一五年(一八四四)には免二ツ六分、家数二一(「高辻并留」松山町資料館蔵)

新興屋村
あらごうやむら

[現在地名]鶴岡市平田ひらた 荒興屋あらごうや

中京田なかきようでん村の西、大山おおやま川東岸の低湿地帯にある。荒興野とも記される。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ高一九一石余。翌九年の検地帳(大川文書)では三三〇石余、居屋敷一二・寺一・宮一。寛永元年庄内高辻帳では高三三〇石余。正保郷帳では田八〇八石余・畑一五六石余で新田があり、この高は野興屋のこうや村・漆島うるしじま村・菖蒲沼しようぶぬま村分を含む。支配領主の変遷は播磨京田はりまきようでん村と同じ。用水は青竜寺川支堰の高田麦たかたむぎ堰・播磨堰の落水に依存(享保一七年「熊出川用水組合高之覚」二口文書)。北方角田二口すまたふたくち(現東田川郡三川町)と共同で長さ五二〇間余の水除堤防を築き、大山川の氾濫に備えていた(「水除土手普請之件」二口文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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