上郷村
かみごうむら
[現在地名]豊里町上郷
手子丸村の西にあり、小貝川東岸の段丘上に南北に延びる。村域には縄文土器が出土した田倉貝塚・田倉遺跡・上郷北遺跡・院内山遺跡・神谷森遺跡・大山遺跡、石器が出土した赤ぼっけ遺跡、大塚古墳、長峰城跡など多くの遺跡があり、集住の古さを示す。古代には下総国豊田郡に属し、台豊田と通称され、豊田氏の本拠地となり、文禄年中(一五九二―九六)に筑波郡台豊田上郷村となり、享保二年(一七一七)に上郷村となったという(筑波郡郷土史)。村内は神谷森・道角・角内・金村・向金村・野手・社内・大山・仕出・上郷・上宿・横町・権現宿・西原・入・向原・田倉の各坪に分れる。
上郷村
かみのごうむら
[現在地名]日高町上郷
円山川右岸、伊福村・多田屋村の東に位置し、西ノ気谷から出石城下(現出石町)に通じる街道筋にあたる。中世の気多郷内上郷の遺称地。江戸時代は当初より東西両組に分割支配され、領主の変遷は、東組は天保七年(一八三六)までは宵田村に同じ。同年幕府領となり(「御用部屋日記」など)、幕末に至る。西組は久斗村西組に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高四八石余(一四八石余の誤りか。東組分のみ)。寛永一六年(一六三九)の知高帳では東組一八四石余・西組三五七石余。
上郷村
かみごうむら
[現在地名]豊野村上郷
全村が山林に覆われ、ここを水源とする小熊野川および砂川の流域に低地が開ける。東は白石野村(現中央町)、南は北海東村(現小川町)、西は中小野村・南小野村(現小川町)、北は下郷村・中間村と接する。南部の砂川の上流域一帯は上上郷ともよばれる。中世は下郷村・中間村とともに八代庄小熊野郷を構成した。慶長国絵図に村名が確認でき、寛永二年(一六二五)九月一四日古田半平に宛てた忠次宛行状(高宮氏所蔵文書)に「益城郡(中略)上郷村」とある。
上郷村
かみごうむら
[現在地名]上三川町上郷
鬼怒川右岸の低地に位置し、ほぼ中央を江川、東境の一部を雀川が南流する。北は橋本村。天保郷帳に「古者道場村」と注される。近世初めは烏山藩領。元和八年(一六二二)幕府領となる。慶安郷帳では「道場村」とみえ、田高一七八石・畑高八九石、旗本服部領。元禄郷帳にも「道場村」とみえ、改革組合村とともに同領。天保郷帳では上郷四ヶ村新田の名もみえ、旧高旧領取調帳では本村分は旗本服部領、新田分は幕府領。
上郷村
かみごうむら
[現在地名]八幡浜市郷
千丈川中流域の山村。東は郷峠・夜昼峠など四〇〇メートル級の山に囲まれ、南は河内村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「上郷村 茅山有、小川有」と記される。庄屋は下郷村庄屋の兼任。郷村が江戸時代初期に上郷村・下郷村に分れたと考えられる。宇和島藩領。
太閤検地の石高は二一五石五升三合、耕地面積の比率は田三三パーセント、畑六七パーセントであったが、寛文検地では石高が三〇パーセント減少し、田一五パーセント、畑八五パーセントの比率に変化しており、畑の開発が著しく進んだ。
上郷村
かみごうむら
[現在地名]大子町上郷
久慈川の支流八溝川の中流に位置し、東は町附村。古くは黒沢上郷村と称し、寛永一五年(一六三八)の御代官郷高帳(「田制考証」所収)の村々高寄新家惣右衛門分に「同所上郷」とされ、同一二年の水戸領郷高帳先高には「黒沢上郷村」とある。「新編常陸国誌」によると万治元年(一六五八)黒沢の称を廃して上郷村となり、寛文五年(一六六五)に分村して上郷・上野宮の二村となる。天保郷帳に「上郷村」とみえる。
天保二年(一八三一)の藤田東湖の「巡村日録」(水戸藤田家旧蔵書類)に「上郷庄やの話に老人の咄に昔は一人前御年貢大抵二両小ばしなりしが近年何れも山畠を捨て郷へのみ出て煙草を作るゆへ年貢出辻遥に昔時に過きすと云」とあり、また「此辺にては上郷村第一に百姓懐合よく」と記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の上郷村の言及
【遠野[市]】より
…岩手県中南部,北上高地中央の遠野盆地にある市。人口2万8172(1995)。1954年遠野町と綾織,小友(おとも),附馬牛(つきもうし),松崎,土淵,青笹,上郷の7村が合体,市制。遠野三山と呼ばれる[早池峰(はやちね)山](1914m),六角牛(ろつこうし)山(1294m),石上山(1038m)に囲まれた遠野盆地の西端,西流する猿ヶ石川の河谷に中心市街の遠野がある。近世は八戸南部藩の城下町で,また内陸部と沿岸部の結節点にあたる交易の町,宿場町として繁栄した。…
※「上郷村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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