於保村(読み)おぼむら

日本歴史地名大系 「於保村」の解説

於保村
おぼむら

[現在地名]一宮市大和やまと於保おぼ

氏永うじなが村の西、南高井みなみたかい村の東にある。弘安五年(一二八二)七月の千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に「永吉田畠 畠二丁四反 於保村三反」とみえ、正安(一二九九―一三〇二)頃の熱田社領関係文書(猿投神社文書)断簡にも「於保珎耀」とある。また観応元年(一三五〇)九月の為久売券案写(妙興寺文書)に「うりわたす、おわりのくになかしま(中島)のこほりのうち、おほ(於保)のむらの畠地事 合二段」とある。天正年中(一五七三―九二)織田信雄が、清須きよすから美濃への道の修築を急ぐために出した織田信雄判物(酒井文書)に「道可築在々」として「一井口郷江長野・津ゝの・二郎丸・久我田・かうハ・おう・宇治長」とあり、「おう」の住民が道普請に狩出されている。

於保村
おほむら

[現在地名]大和町大字いけうえ字於保

佐保川島そうこうじま郷に属する小規模な村。山麓からかなり隔たっているので縄文時代の遺跡は発見できないが、弥生式土器が発見され、当時水田耕作が行われていたことが確認できる。また、弥生時代の住居跡が発見された久留間くるま遺跡にも近い。

中世、於保村を中心に活躍したものに於保家がある。多久家文書中、肥前国御家人於保種宗の所領於保村の地頭職と肥前国執行職等についての注進状などによると、建長七年(一二五五)種宗の祖父於保三郎宗益は於保および益田ますだ(現佐賀市増田)を領し、河上社遷宮奉行を務めている。また注進状に「一、於保村仮名安松代々令勤仕御家人役地也」とあり、於保村が「安松名」ともいわれ、彼が御家人であったことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報