出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…しかし54年(享徳3)の関東の動乱後,東国は全体として室町幕府の支配から離れた独自な歩みを進め,成氏も京都の改元を用いず,享徳の元号を使用しつづけるなど,これ以後,異年号はしきりに関東に出現する。
[日光山]
日光山は東国の聖地として,古くから東国の政治勢力と密接な関係を保ち,鎌倉公方と深いつながりをもっていたが,成氏の用いた延徳,福徳などの異年号も,日光と関連があるとする説も提起されている。戦国の動乱の中で関東南部の支配者になった後北条氏も,東国国家の伝統をうけつぐ意識をもち,〈関八州国家〉を目ざしたといわれており,日光も最後までこれに荷担しつづけた。…
…徳川家康をまつる神社。1616年(元和2)家康が駿府で没すると,遺言に基づきいったん駿河久能山に葬り,翌年下野日光山に遷葬,朝廷から東照大権現の神号が授けられた(日光東照宮)。久能山東照社は17年12月社殿を造替,幕府は神領3000石を寄進した。…
…標高2484m。二荒(ふたら)山,日光山,黒髪山ともいう。北東には大真名子(おおまなご)山(2375m),小真名子山(2323m),女峰(によほう)山(2464m),赤薙(あかなぎ)山(2010m),北西には太郎山(2368m),山王帽子(さんのうぼうし)山(2085m)が連なり,戦場ヶ原,湯ノ湖を隔てた白根山(日光白根)などとともに日光火山群を形成する。…
…このため〈日光を見ずして結構というなかれ〉とまでいわれ,日本を代表する観光地の一つとして国際的にも知られている。 表日光は日光市街地を中心にした大谷川沿いの地域で,かつては神仏習合の〈日光山〉と総称された二荒山(ふたらさん)神社,東照宮,輪王(りんのう)寺の2社1寺とその門前町を含み,華美な彫刻のほどこされた東照宮陽明門をはじめ人工美にあふれ,かつては〈日光詣〉でにぎわい,今も日光観光の中心地にあたる。また市街の北,赤薙(あかなぎ)山南麓の霧降(きりふり)高原はニッコウキスゲの群落や紅葉で知られ,板穴川にかかる霧降滝(落差75m)は,華厳滝,裏見滝とともに日光三名瀑に数えられる。…
…1616年(元和2)4月17日家康が駿府城で没すると,遺言に基づき,幕府はその夜神式をもって駿河久能山に葬り,墓前に社殿を建てた。遺命により天海の主導で,一周忌を期し下野国都賀郡日光山に改葬することとなり,翌17年仏岩山南に本社,拝殿,本地堂以下が完成,神霊をうつして4月正遷宮の祭礼が行われ,朝廷から東照大権現の神号の宣命と正一位の神階を受けた。なお廟所奥院の木造宝塔は22年竣工した。…
…幕府は1648年(慶安1)ごろより目付を1人在勤させ,日光東照宮の警備と山中の監察に当てた。3代将軍徳川家光の没後,その遺臣梶定良が大猷院(家光)廟定番(じようばん)となり,ともに日光山を管轄したが,のち目付在勤制を廃し,日光奉行を創設した。老中支配,定員2名,役高2000石,役料500俵。…
…15~16世紀に胤業,綱重,綱房,綱雄,義雄の5代にわたり繁栄。胤業が壬生城を築城,綱重は鹿沼まで進出,やがて鹿沼城を築いてここに移り日光山への進出を図った。綱房は日光山神領惣政所職ともなっている。…
…日光山を総括,東叡山寛永寺を管領,比叡山の天台座主を歴任し,比叡山諸門跡の首班に列した法親王。1613年(慶長18)天海が日光山貫主に補せられ,17年(元和3)徳川家康の遺骸を日光山に改葬した。…
※「日光山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新