日本大百科全書(ニッポニカ)「山岳信仰」の解説
山岳信仰
さんがくしんこう
山岳に宗教的意味を与えて崇拝し、種々の儀礼を行うことをいう。古来、山岳は世界各地で精霊、神々、悪魔などの居所として畏敬(いけい)されてきた。さらに祖霊のすみか、天と地を結ぶ軸、宇宙そのものと信じられた。山岳は修行・祭り・啓示・託宣などがなされる場所でもあった。こうしたことから山頂や山麓(さんろく)などには、祭場・寺社・祠(ほこら)・墓などがつくられ、巡拝者が訪れることも多かった。
山岳信仰は世界の諸宗教にみることができる。未開社会では山岳は神霊のすみかとされ、雨乞(あまご)いや豊饒(ほうじょう)の祭りが行われた。古代宗教でも、山岳信仰は、ゼウスをはじめとする神神がいるとされたギリシアのオリンポス山の信仰、バビロニアで山を築いてエンリルを祀(まつ)る祭り、エジプトの死者の国への道としての山岳の信仰などにみることができる。また東洋では、中国の泰山(たいざん)・霍山(かくざん)・華山(かざん)・恒山(こうざん)・嵩山(すうざん)の五岳(ごがく)の信仰、道教の他界である崑崙(こんろん)山、仙人のすみかとされた蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)の三神山の信仰、インドの聖なる山ヒマラヤ、チベットのカイラス山信仰などが広く知られている。ヒマラヤの信仰は仏教に摂取されて、須弥山(しゅみせん)中心の宇宙観を生み出した。須弥山は宇宙の中心をなす山岳で、高さ800由旬(ゆじゅん)、山頂には帝釈天(たいしゃくてん)、山腹には四天王が住み、日月がその周囲を回り、人間は九山八海を隔てた周囲にある四つの島に住むとされたのである。わが国でも妙高(みょうこう)山、弥山(みせん)などの山名はこの須弥山を意味している。山岳信仰は、ユダヤ教のモーセが十戒を授かったシナイ山信仰、キリスト教のイエスが磔(はりつけ)になったゴルゴタの丘の信仰、イスラム教の聖地メッカ近くのアラファト山の信仰などのように、他の普遍宗教にも認めることができる。
[宮家 準]
日本の山岳信仰
日本でも古来、山岳は神霊の住む霊地として崇(あが)められた。その神霊は農民たちには水田稲作を守る水分(みくまり)の神や祖霊とされ、山中の猟師たちには獲物を授けてくれる山の女神と信じられた。そして農民は山麓で、猟師たちは山中で祭りを行った。農民たちの山の神祭祀(さいし)はやがて神社神道(しんとう)に引き継がれ、村の背後の小丘を神の居所として山麓に祠をつくって祀る神社祭祀となっていったのである。さらに大神(おおみわ)神社(奈良県)、金鑽(かなさな)神社(埼玉県)、諏訪(すわ)神社(長野県)などのように、山自体を神体として、拝殿から直接拝する神体山信仰の形態をとるものも現れた。
奈良時代には、仏教や道教の影響を受けて入山修行をする者も多かった。そして最澄(さいちょう)、空海により山岳仏教が提唱されるにつれて、山岳寺院がつくられ、山岳はとくに、天台、真言(しんごん)の密教僧たちの修行道場となっていった。こうした密教僧のうち、とくに験力を修めた者は修験(しゅげん)とか山伏(やまぶし)とよばれた。修験者は大和(やまと)(奈良県)の大峰(おおみね)山などの山岳で修行した。やがて、古代末ころになると、修験者たちは奈良時代の優れた山岳修行者役小角(えんのおづぬ)を開山にいただいて修験道とよばれる宗教をつくりあげていった。中世期には修験者は、吉野(よしの)(奈良県)、熊野(くまの)(和歌山県)、羽黒(はぐろ)(山形県)、英彦山(ひこさん)(福岡県)、白山(石川・岐阜県)など各地の霊山を拠点として、山野を跋渉(ばっしょう)し、宗教面のみでなく、政治・軍事の面でも大きな力をもっていた。しかし近世以降は村々に定着し、呪術(じゅじゅつ)宗教的な活動に従事した。
近世期には一般庶民たちも講(こう)を結んで山岳に登るようになっていった。とくに富士山、木曽(きそ)の御嶽(おんたけ)山、出羽(でわ)三山、大峰山、三峰(みつみね)山(埼玉県)、石鎚(いしづち)山(愛媛県)、英彦山などは多数の信者を集めていった。明治期になると政府は神仏を分離し修験道を廃止したので、修験者は天台か真言の仏教教団に所属した。このおり神職になったり帰農した修験者も多かった。しかし第二次世界大戦後は修験教団が独立し、各地の山岳霊場にも数多くの登拝者が集まっている。
[宮家 準]
『和歌森太郎著『山岳宗教の成立と展開』(1975・名著出版)』▽『桜井徳太郎著『山岳宗教と民間信仰の研究』(1976・名著出版)』