天平神護二年(七六六)勝道の開山(補陀洛山建立修行日記)。勝道は下野国
勝道ののち高弟で従弟の教旻が跡を継いだ(日光座主御歴代)。同じく勝道従弟の道珍もその高弟である。道珍は日光開創の記録「補陀洛山建立修行日記」「日光山滝尾建立草創日記」を撰したと伝えるが、事実かどうかは疑わしい。教旻は弘仁年中大千度行法を修したという(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。この法は日光の大小の堂社を巡拝する古法で、無言の行として知られ、近世まで伝えられた。また「満願寺三月会日記」によると、弘仁一二年には六月の神宮会(のちの二荒山神社弥生祭)を三月(現在四月一七日)に改めている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
栃木県日光市山内にある天台宗の門跡(もんぜき)寺院。766年(天平神護2)勝道上人(しょうどうしょうにん)により開創された四本竜寺(しほんりゅうじ)に始まる。810年(弘仁1)に満願寺の号を受け、820年には空海、848年(嘉祥1)には円仁(えんにん)がきて諸堂が建立され、山内は大いに栄えたと伝えられる。のちやや衰退したが、源頼朝(よりとも)の寺領の寄進や北条時頼(ときより)の帰信など鎌倉幕府の庇護(ひご)を受け、1308年(延慶1)には仁澄(にんちょう)親王が当山第27世となり、皇室との関係も密接となった。最盛時には僧坊300余といわれたが、足利尊氏(あしかがたかうじ)の兵乱に巻き込まれ、さらに豊臣(とよとみ)秀吉による寺領没収などで、大坊が9か寺残されるのみとなった。
慶長(けいちょう)年間(1596~1615)天海(てんかい)が当山に入って以来ふたたび興隆し、徳川家康の帰依(きえ)も厚く寺領2000余石を受けた。家康没後、秀忠(ひでただ)は父家康の霊廟(れいびょう)をつくり、1617年(元和3)久能山(くのうざん)から霊柩(れいきゅう)を迎えて改葬し、東照大権現(だいごんげん)とした。以来徳川幕府と特別な関係を保ち、諸大名の寄進も行われて、家光(いえみつ)の東照宮改築をはじめ諸堂がしだいに完備した。1655年(明暦1)には輪王寺の号を受け、後水尾(ごみずのお)天皇の皇子守澄(しゅちょう)法親王が初代の門跡となり、寛永(かんえい)寺門跡、天台座主(ざす)をも兼ね、明治に至るまで歴代法親王は管領宮(かんりょうのみや)として仏教界に君臨した。1871年(明治4)神仏分離令で、日光東照宮、二荒山(ふたらさん)神社が独立し、寺は満願寺の旧名を称したが、1885年日光山輪王寺門跡号を復活した。以後、三仏堂(国重文)を本堂とする。家光の霊を祀(まつ)る大猷院霊廟(だいゆういんれいびょう)の本殿・相の間・拝殿の3棟が国宝に、同じく大猷院霊廟の唐門・皇嘉門など19棟、また常行(じょうぎょう)堂、慈眼(じげん)堂、特徴ある相輪橖(そうりんとう)などが国重要文化財に指定されている。1961年(昭和36)焼失した鳴竜(なきりゅう)で有名な薬師堂は68年復興された。寺宝には『大般涅槃経集解(だいはつねはんぎょうしゅうげ)』(国宝)、東照権現像八幅、千手観音(せんじゅかんのん)像(ともに国重文)などや工芸品、古書を多く蔵する。4月2日の強飯(ごうはん)式、5月17日の延年の舞は有名。
[塩入良道]
『山本健吉他文、名鏡勝朗写真『古寺巡礼 東国2 輪王寺』(1981・淡交社)』
栃木県日光市にある天台宗の寺。山号は日光山。日光門跡,御本坊とも称した。日光山の山岳信仰の歴史は古く,寺も天平のころ勝道が開創した四本竜寺に始まると伝える。寺名はその後四本竜寺から満願寺に変わり,院号も一乗実相院,光明院へと変わった。1613年(慶長18)天海が中興した。17年(元和3)東照大権現の号を贈られた徳川家康の廟が建てられ,36年(寛永13)には大造営が行われた(日光東照宮)。これより先,1621年に本坊が造営され,東照宮の別当寺としての役割を果たすこととなった。54年(承応3)後水尾天皇の皇子守澄法親王が江戸寛永寺とともに当山を兼帯,55年(明暦1)輪王寺宮の号を賜り,以後門跡寺院として延暦寺や寛永寺と並ぶ天台宗の有力三ヵ寺の一つとなった。しかし,1868年(明治1)輪王寺宮門跡は廃止され,71年(明治4)神仏分離政策によって日光山は二荒山(ふたらさん)神社,東照宮および満願寺に分離された。僧侶の東照宮神官としての任務は禁止され,各院・各坊はすべて併合されて,満願寺だけが存在を許された。このとき多くの仏像,経典が灰燼(かいじん)に帰した。その後85年,再度門跡号が許され,日光山輪王寺となった。
執筆者:圭室 文雄 寺宝として,《大般涅槃経集解(だいはつねはんぎようしゆうげ)》59巻(国宝)をはじめ,《東照権現像》,住ノ江蒔絵硯箱,紺紙金泥《阿弥陀経》など,絵画,工芸,書跡にわたる多数の重要文化財を有する。彫刻には,立木仏で知られる木造千手観音像(重要文化財,平安時代)があり,徳川家光をまつる大猷院霊廟(だいゆういんれいびよう)(国宝。1653)は東照宮と同じく権現造で,全体に蒔絵,金箔を施した極彩色の贅を尽くした建物である。本堂三仏堂は正保4年(1647)の棟木銘をもち,天台本堂の古制を伝える大建築である。そのほか常行堂,法華堂,慈眼堂なども江戸期の建築で重要文化財に指定されている。
執筆者:上田 敬二
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東京都台東区の上野公園にある東叡山寛永寺の本坊。当寺3世の後水尾天皇の皇子守澄(しゅちょう)入道親王のとき,日光に輪王寺の寺号が与えられ,親王が日光輪王寺門跡と寛永寺の住持を兼ね,輪王寺宮と号したのが始まり。以後代々の輪王寺宮は寛永寺に住み,江戸と日光を往復して両寺を統轄した。1869年(明治2)輪王寺の号は廃されたが,85年日光・東叡山の両所に寺号が復活され,寛永寺と別に門跡寺院として輪王寺がたてられた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…神像は烏帽子・狩衣装束で鼓をもち唱歌する壮年の姿で,笹を採物にして舞う2童子を従える図像が普通である。比叡山をはじめ,法勝寺,多武峰(とうのみね)妙楽寺,日光輪王寺,出雲鰐淵寺など各地方の中心的天台寺院の常行堂の後戸(うしろど)にまつられた。その祭祀は,たとえば輪王寺の《常行堂故実双紙》によると,修正会と結合した常行三昧のなかで,この神を勧請して延年が行われ,七星をかたどる翁面を出し,古猿楽の姿を伝える種々の芸能が演ぜられた。…
※「輪王寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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