日本大百科全書(ニッポニカ) 「旧ユーゴ諸国史」の意味・わかりやすい解説 旧ユーゴ諸国史(年表)きゅうゆーごしょこくしねんぴょう 7世紀中ころ 南スラブ人(スラブ民族)、バルカン半島に定住完了925 トミスラブ、クロアチア王を宣言1168 セルビアにネマニッチ朝創設1389 コソボの戦い。セルビアなどのバルカン連合軍、オスマン・トルコ軍(オスマン帝国)に敗北1496 モンテネグロが屈し、南スラブ諸地域がオスマン帝国領となる1799 主教ペータル1世、モンテネグロの完全な自治を獲得1804 第一次セルビア蜂起(~1813)。失敗1808 コピタル、スロベニア語文法を刊行1809 ナポレオン1世、スロベニア、クロアチア、ダルマチア、ドゥブロブニクを「イリリア諸州」として統治1814 カラジッチ、セルビア語/クロアチア語初の文法書を出版1815 第二次セルビア蜂起。ミロシュ・オブレノビチ、世襲の公となる1835 クロアチアで、南スラブの統一を求める「イリリア運動」活発化1844 ガラシャニン、セルビアの外交政策「ナチェルターニエ(指針)」発表1848 クロアチア、ボイボディナ、スロベニアで民族的要求が掲げられる1860 クロアチアのシュトロスマイエルら、「ユーゴスラビア統一運動」を推進1868 クロアチア、ハンガリーと「ナゴドバ(和協)」を締結1868 セルビア公ミハイロ暗殺。バルカン同盟諸国の対オスマン帝国一斉蜂起失敗1878 セルビアとモンテネグロの独立承認1908 オーストリア・ハンガリー帝国、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合1912~1913 第一・第二次バルカン戦争1914 サライエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告1918 「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」成立1934 アレクサンダル1世暗殺1939 クロアチア自治州設立1941 日独伊三国同盟加入に反対するクーデター成功1943 ヤイツェでAVNOJ第2回大会開催1945 ユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴスラビア)成立1948 ユーゴ、コミンフォルムから追放1950 自主管理社会主義(労働者自主管理)が法制化1961 ベオグラードで第1回非同盟諸国会議開催1980 チトー大統領死去。集団指導体制発足1990 各共和国で自由選挙1991 スロベニア、クロアチアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発1992 ボスニアで内戦が生じ、支配領域の拡大をねらうムスリム、セルビア人、クロアチア人の3勢力による戦闘が3年半以上にわたり展開され、他民族を強制追放するか抹殺する「民族浄化」が相互に行われ、冷戦後の最大の民族紛争として国際問題化。旧ユーゴスラビアは解体。クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア共和国、ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)が独立国家として成立1993 旧ユーゴスラビアの内戦(ユーゴ紛争)の過程で行われた非人道的行為を裁く目的で、オランダ・ハーグに旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷設置1994 セルビア人勢力がサライエボの市場を砲撃、死者68人、負傷者200人の惨事。ボスニア紛争により北大西洋条約機構(NATO)軍、ボスニア上空でセルビア人勢力機4機撃墜、創設以来初の武力行使を行う。NATO軍所属のアメリカ軍機がセルビア人武装勢力を空爆1995 アメリカの主導により、ボスニア紛争3当事国がボスニア・ヘルツェゴビナ和平協定調印(デイトン合意)。スロベニア、ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA(エフタ))に加盟1996 スロベニア、中欧自由貿易協定(CEFTA)に加盟1998 セルビア共和国南部のコソボ自治州でアルバニア系のコソボ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間に武力衝突が発生、コソボ紛争が激化、死者・難民が多数発生1999 コソボ紛争をめぐり、3月、NATO軍が軍事介入に踏み切り、ユーゴスラビアを空爆。6月、コソボ和平が成立、ユーゴのミロシェビッチ大統領はオランダ・ハーグの旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷から、反人道的行為や大量殺害の罪で戦犯として起訴される。コソボは国連コソボ暫定統治機構(UNMIK)の暫定統治下に入る2000 新ユーゴスラビア、大統領にコシュトゥニツァ就任、ミロシェビッチは退陣。新ユーゴが国連に復帰加盟。クロアチアが世界貿易機関(WTO)に加盟2001 3月、マケドニア共和国政府軍がアルバニア系住民の武装組織「民族解放軍(NLA)」への総攻撃を開始。4月、ミロシェビッチ元ユーゴスラビア連邦大統領が職権濫用・汚職容疑で逮捕。8月、マケドニア共和国政府軍が停戦を宣言、アルバニア系住民の武装組織NLAとの民族紛争解決を目ざす和平合意文書に調印。コソボで自治州議会選挙が行われ、コソボ暫定自治政府が立ち上げられる2002 新ユーゴスラビアのセルビア、モンテネグロ両共和国は「緩やかな連合国家」に再編されることで合意(ベオグラード合意)2003 ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が、国名をセルビア・モンテネグロと改称、スベトザル・マロビッチが大統領に就任2004 スロベニアが、旧ユーゴ連邦諸国としては初めて北大西洋条約機構(NATO)およびヨーロッパ連合(EU)に加盟2005 国連安保理が関係当事者によるコソボの地位交渉の開始を決定2006 3月、元ユーゴスラビア大統領ミロシェビッチ、オランダ・ハーグの拘置所内で死去。5月、セルビア・モンテネグロを構成するモンテネグロ共和国で分離・独立の是非を問う国民投票が行われた結果、独立賛成票が55%を越え、6月にモンテネグロ共和国が独立。それを受けて、セルビアはセルビア・モンテネグロの承継国として独立国家セルビア共和国(首相はコシュトゥニツァ)となり、セルビア・モンテネグロという連合国家は消滅。これにより旧ユーゴスラビア連邦を構成していた6共和国はすべて独立したことになった。9月、モンテネグロで、独立後初の議会選挙が行われ、ジュカノビッチ首相率いる民主社会党の与党連合が勝利2007 1月、スロベニアが通貨をユーロとする。10月、モンテネグロ、新憲法を制定2008 2月、コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言(アメリカ、EU諸国が独立を認め、3月に日本も国家として承認) 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例