翻訳|Cominform
Information Bureau of the Communist and Workers' Parties(Communist Information Bureau)の略称。〈共産党および労働者党情報局〉と訳される。1943年5月のコミンテルン解散後,47年9月,ヨーロッパ共産党,労働者党の連絡組織として,ポーランドで結成された。本部は最初ベオグラードにあったが,ユーゴスラビア共産党除名(1948)後はブカレストに移転。機関紙《恒久平和と人民民主主義のために》を発行。共産党の世界統一組織として中央集権主義,一枚岩を誇ったコミンテルンと異なり,コミンフォルムのおもな目的は,冷戦下におけるヨーロッパの主要共産党間の情報交換,経験交流,活動の密接な連携であった。結成に参加したのは,ソ連共産党,チェコスロバキア共産党,ルーマニア共産党,ポーランド労働者党(のちに統一労働者党),ハンガリー共産党(のちに勤労者党,社会主義労働者党),ユーゴスラビア共産党(のちに共産主義者同盟),ブルガリア労働者党(のちに共産党),西欧からはイタリア,フランス両共産党の9党であった。コミンフォルムはコミンテルンの継承組織ではなかったが,両組織の共通点は,いずれもソ連共産党とソ連外交の補助機関になったことであり,ソ連への服従がプロレタリア国際主義の規範とされた。アメリカ帝国主義の世界支配への攻撃,トルーマン・ドクトリン,マーシャル・プランへの反キャンペーン,社会民主主義攻撃を通じて,コミンフォルムは社会主義対資本主義,平和勢力と戦争・帝国主義勢力という二つの世界の対立を構図として描いた。コミンフォルムは内部の異端に対しても,きびしい攻撃を展開した。独自の社会主義への道は,ソ連社会主義モデルの信奉に引き戻され,それに抵抗したユーゴスラビア共産党は,48年6月破門された。チトーとユーゴスラビア共産党はファシズムの共犯者,アメリカ帝国主義のスパイと非難されながらも,スターリンの要求に屈せず独自の道を歩んだ。ソ連共産党が和解の手を差しのべたのは,スターリンの死後であり,第一書記に就任したフルシチョフは55年5月ベオグラードを訪問,ユーゴスラビア共産党に加えられた数々の侮辱を詫びた。ヨーロッパ以外の各国共産党に対しても,たとえば1950年から51年にかけて,日本共産党の平和革命論(野坂理論)を批判したり,党内論争にも介入したが,これは日本共産党の戦術転換の契機となった。コミンフォルムは56年4月解散したが,そのきっかけは同年2月のソ連共産党第20回大会でのスターリン批判である。スターリン主義の国際化につとめたコミンフォルムの解散は,非スターリン化運動の必然的帰結でもあった。
執筆者:仲井 斌
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共産党および労働者党情報局Communist Information Bureauの略称。第二次世界大戦後東西両陣営の形成とその間の緊張化が進むなかで、ソ連を中心とするヨーロッパ9か国の共産党および労働者党が相互に情報や経験を交換することを本来の目的として設置された国際機関。その設置は1947年10月に公式に発表されるが、すでに9月には各党(ソ連をはじめ、ユーゴスラビア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアの各党、さらにフランス、イタリア両資本主義国の共産党もこれに参加した)の2名ずつの代表らによる第1回総会が開かれている。この会議では、ユーゴスラビアのベオグラード(のちルーマニアのブカレスト)にコミンフォルムの本部を置くことや、機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』を隔週(のち毎週)発行することなどが決定された。
コミンフォルムは、必要な場合に相互の合意に基づいてのみ活動の調整を行うものとされ、ソ連の指導性はある程度認めながらも、コミンテルンのような指導機関となることは否認されていた。しかし1948年のユーゴスラビアの除名を契機に、「修正主義の一掃」や「東側陣営の結束」を理由とした統制がスターリンによって強化される。こうして、戦後一時期認められたかのように思われた社会主義への道の多様性はふたたび否定され一元化された。
しかし1953年スターリンの死後、フルシチョフの登場などからスターリン体制の見直しが始まり、対外的にも各国の社会主義への道の多様性をソ連は表面上認めるようになる。55年フルシチョフのユーゴスラビア訪問はそれを象徴する事件の一つであった。このとき、ユーゴスラビアの除名に関するコミンフォルムの決議は否認された。こうして、ソ連における非スターリン化の進展に伴い、56年コミンフォルムは解散された。しかしこの組織が、アメリカによる戦後世界の帝国主義的再編に対抗するうえで果たした役割は見逃せない。
[越村 勲]
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共産党・労働者党情報局Communist Information Bureauの略称(Cominform)。ソ連と欧州諸国の共産党・労働者党の連絡組織。第2次大戦後の東西対立で,マーシャル・プランに対抗して1947年9月にソ連,フランス,イタリア,ブルガリア,ルーマニア,ハンガリー,ポーランド,チェコ・スロバキア,ユーゴスラビアの9カ国の共産党が組織。48年チトーの率いるユーゴスラビア共産党が,ソ連本位の経済計画に公然と反抗して除名された。49年東ドイツが加盟。緊張緩和と56年2月のソ連共産党第20回大会(スターリン批判・平和共存政策)に対応し,各国共産党の自主性を尊重して同年4月解散。
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共産党・労働者党情報局の略称。1947年,国際情勢の変化に対応して,ソ連,ルーマニア,ブルガリア,ハンガリー,ポーランド,チェコスロヴァキア,ユーゴスラヴィア,フランス,イタリアの9カ国の共産党により経験の交換,活動の調整のための組織として設立された。翌年,民族主義的偏向の理由でユーゴスラヴィア共産党を除名した。50年には日本共産党の平和革命論を批判。56年,国際情勢の変化を理由に解散した。
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…たとえば,アメリカは東側ブロックを〈多数の上に強制された少数の意志を基礎としている。それは恐怖と弾圧,新聞・ラジオの検閲,定められた選挙,そして個人の自由の抑圧に依存している〉(1947年3月,トルーマン・ドクトリン)体制であるとし,ソ連は西側陣営を〈帝国主義・反民主主義陣営で,アメリカ帝国主義の世界制覇と民主主義の破壊とを基本目的としている〉(1947年9月,コミンフォルム宣言)体制であると批判した。 イデオロギー対立は,確かにこの時代に限られたものではない。…
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