日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミロシェビッチ」の意味・わかりやすい解説
ミロシェビッチ
みろしぇびっち
Slobodan Milošević
(1941―2006)
ユーゴスラビア(現セルビア)の政治家。セルビア北東部の町ポジャレバッツで、セルビア正教会司祭の子として生まれる。両親が離婚し、母親のもとで育つ。1959年に共産主義者同盟に入党。1964年にベオグラード大学法学部を卒業後、テクノクラート(高級技術官僚)として頭角を現し、企業長やベオグラード銀行の頭取を務めた。チトーが死去した翌年の1981年、コソボ自治州で経済的不満を背景に、人口の80%を占めるアルバニア人の権利拡大を求める暴動が生じた。この事件以後、コソボの「少数者」セルビア人の権利を保障できないというセルビア人の民族的な不満が強まった。ミロシェビッチは、セルビア人のこうした不満を利用しつつ、1984年にセルビア共産主義者同盟ベオグラード市委員会議長、1986年にセルビア共産主義者同盟議長、1987年にはセルビア共和国幹部会議長に就任した。1990年の複数政党制による初の自由選挙では社会党(共産主義者同盟が改称)を支持母体として、セルビア共和国大統領に当選した。1992年4月にセルビアとモンテネグロからなる新しいユーゴスラビア連邦が創設されたあと、12月のセルビア共和国大統領選挙で再選された。権力欲と冷徹さを備えた人物であり、セルビアのナショナリズムを巧みに利用しつつ村部に強い支持基盤を築いた。権力への執着はきわめて強いが、1991年から始まった旧ユーゴ内戦の最大の責任者とする国際世論は一方的にすぎた。
1995年にボスニア内戦が終結し、1997年7月、連邦議会は新ユーゴスラビア大統領リリッチZoran Lilić(1953― )が任期切れ(任期4年)となったため、後任にセルビア共和国大統領のミロシェビッチを選出した。ミロシェビッチはセルビア共和国大統領の時期から、実質的には新ユーゴスラビアを代表していたが、文字どおりの連邦大統領に就任した。1998年に入っても、新ユーゴスラビアは国際復帰を果たせず、経済不振が継続するなかで、コソボ自治州のアルバニア人問題、自立傾向を強めるモンテネグロ共和国の問題が表面化し、連邦大統領としての権力基盤は揺らぎつつあった。その後、コソボ自治州におけるアルバニア人問題をめぐり、和平交渉を提案する北大西洋条約機構(NATO(ナトー))と対立したため、1999年3月NATO軍は「人道的介入」を理由として、ユーゴスラビア空爆に踏みきった。同年6月ミロシェビッチはG8(ジーエイト)諸国の提案する和平案を受け入れたため、78日間に及ぶ空爆はやみコソボ和平が成立したが、この過程でオランダ・ハーグの旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷から、反人道的行為や大量殺害の罪で戦犯として起訴された。2000年9月、経済制裁の続く最悪の経済状態のもと、大統領選が前倒しで実施され、思惑に反して選挙に敗北。10月の「民衆革命」により、13年に及ぶ政権は崩壊し、セルビア野党連合(DOS)のコシュトゥニツァが新大統領となった。2001年4月ミロシェビッチは不正蓄財と職権濫用の容疑で逮捕され、6月には戦犯として旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷に身柄を引き渡された。2002年2月裁判が始まったが、公判中の2006年3月、ハーグの拘置所で心筋梗塞(しんきんこうそく)により死去。
[柴 宜弘]