日本歴史地名大系 「昼間村」の解説
昼間村
ひるまむら
吉野川北岸、讃岐山脈南側の河岸段丘上にあり、西は
慶長二年(一五九七)の分限帳に村名がみえ、七八四石余が益田内膳丞、四八六石余が中村藤兵衛、一〇〇石が野間忠助、五〇石が岡崎九郎三郎の知行分であった。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)に村瀬将監の知行分として当村の高一五三石余・人数一二とある。正保国絵図では高一千四〇九石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方八一六石余・畠方五九三石余、芝山・はへ山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高五三一石余。「阿波志」によると陸田一〇分の五、水田一〇分の五で反別七一町五反余、高二千一六六石で半分ほどが給地。家数二六六。文化一〇年(一八一三)の高都帳では東西に分けて記され、東昼間村の高一千二七一石余、西昼間村の高九四七石余。幕末には耕地面積の約半分、村高の三分の二にあたる九一町九反余・一千四三六石余が蔵入地で、残る耕地面積の約半分、村高の三分の一にあたる九二町八反余・七七六石余を一七名の藩士で分知していた(三好郡昼間村史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報