昼間村(読み)ひるまむら

日本歴史地名大系 「昼間村」の解説

昼間村
ひるまむら

[現在地名]三好町昼間

吉野川北岸、讃岐山脈南側の河岸段丘上にあり、西は州津しゆうづ(現池田町)、北は東山ひがしやま村、東は足代あしろ村。南を吉野川が東流し、対岸つじ西井川にしいのかわ(現井川町)。村中央部を撫養むや街道が東西に通り、吉野川には辻・西井川村との間に渡しがあった。撫養街道から讃岐へ抜ける山越えの道があり、正保四年(一六四七)の海陸道度帳には昼間山越として本道より国境まで一里三〇町とあり、山脇やまわき(現香川県仲南町)に出る道であったが、牛馬の通行はなかった。近世後期には東西に分れていた。

慶長二年(一五九七)の分限帳に村名がみえ、七八四石余が益田内膳丞、四八六石余が中村藤兵衛、一〇〇石が野間忠助、五〇石が岡崎九郎三郎の知行分であった。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)に村瀬将監の知行分として当村の高一五三石余・人数一二とある。正保国絵図では高一千四〇九石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方八一六石余・畠方五九三石余、芝山・はへ山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高五三一石余。「阿波志」によると陸田一〇分の五、水田一〇分の五で反別七一町五反余、高二千一六六石で半分ほどが給地。家数二六六。文化一〇年(一八一三)の高都帳では東西に分けて記され、東昼間村の高一千二七一石余、西昼間村の高九四七石余。幕末には耕地面積の約半分、村高の三分の二にあたる九一町九反余・一千四三六石余が蔵入地で、残る耕地面積の約半分、村高の三分の一にあたる九二町八反余・七七六石余を一七名の藩士で分知していた(三好郡昼間村史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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