普明寺(読み)ふみようじ

日本歴史地名大系 「普明寺」の解説

普明寺
ふみようじ

[現在地名]裾野市千福

千福せんぷく集落の北部、千福城跡とよばれる独立丘陵の南西脚部に位置する。太平山と号し、曹洞宗開山定輪じようりん寺二世の安叟宗楞に求められており、文明六年(一四七四)二月二二日の安臾宗楞画像賛写、同一五年一二月日の安叟宗楞譲状写(いずれも可睡斎史料集所収僧録司文書)が、その起源を物語る支証となっている。安叟宗楞の定輪寺入寺以前の同元年一二月日の普明寺領田畑注文写(同文書)によると前遠江守某が一九貫三〇〇文の田畠を書上げているが、以上三点の史料は検討を要する。天文一四年(一五四五)一〇月六日甲斐武田家は長久保ながくぼ(現長泉町)攻撃に際し、戦場から程近い当寺に対し武田軍の狼藉停止を約束した制札(普明寺文書)を下している。

普明寺
ふみようじ

[現在地名]鹿島市古枝字久保山

浄土じようど山北東山麓に位置する黄檗宗の寺院。山号は円福山。本尊釈迦如来。現在末寺法泉ほうせん寺が管理。

鹿島四代藩主鍋島直条の編述になる「鹿島志」に「普明寺は久保山の麓に在り。我兄格峯の旧居なり。一旦其の地を捨てて寺と為し、桂岩禅師を主席に請ひ古田村の地百石を以て香資に充つ。自後梵宇を創造し、仏殿・禅堂・方丈・衆寮・浴室・鐘楼悉く備はる。山は円福と号し、桂岩禅師を以て開山祖堂と為す」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報