千福村(読み)せんぷくむら

日本歴史地名大系 「千福村」の解説

千福村
せんぷくむら

[現在地名]裾野市千福・千福せんぷくおか

大畑おおはた村の北に位置する。黄瀬きせ川の西岸を占め、北は葛山かずらやま村・御宿みしゆく村。葛山村・御宿村の境界を南下してきた佐野さの川が村内を貫流し、大畑村との境で黄瀬川に注ぐ。村域は東西に細長く、東部は黄瀬川沿いの低地、西部は愛鷹あしたか山東麓の丘陵地・山地である。集落の北方、字平山ひらやまの独立丘陵(標高二〇一メートル、通称城山)の南部に中世城跡があり、千福城とよばれている。

文明一五年(一四八三)一二月日の安叟宗楞譲状写(可睡斎史料集所収僧録司文書)に「御厨之内、葛山郷平山田地」とみえる。天文八年(一五三九)四月一二日の葛山氏広後室朱印状(山田文書)に、木地師が挽物として槻の木を取る権利を有した「五ケ所之山」の一つとして「千福山」がみえ、この千福山はおそらく平山の独立丘陵をさすものであろう。


千福村
せんぶくむら

[現在地名]武生市千福町・東千福ひがしせんぶく

府中町の西南妙法寺みようほうじ山の北にある。暦応三年(一三四〇)九月日付石河頼景軍忠状(天野文書)の同月一四日に「妙法寺麓焼払千伏存家」とある「千伏」は、おそらく当地一帯をさすと思われ、また、文明六年(一四七四)閏五月二六日付朝倉孝景宛足利義政感状(「朝倉家記」所引)に「千福中務少輔」の名がみえるのは当地方の国人か。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「五ケ村千福」とみえ、村高から当村のほか、さわ岡本おかもと三口みつくち三村を含むと推定される。正保郷帳によると、田方八七二石余・畠方五六石余。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、宝暦八年(一七五八)以降美濃国郡上藩領となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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