曾禰荒助(読み)そねあらすけ

改訂新版 世界大百科事典 「曾禰荒助」の意味・わかりやすい解説

曾禰荒助 (そねあらすけ)
生没年:1849-1910(嘉永2-明治43)

明治時代の政治家。長州藩士宍戸潤平の三男に生まれ,のち曾禰家を継ぐ。戊辰戦争に従軍し,維新後フランスへ留学,1877年帰朝し,一時陸軍省に出仕したが,のち太政官少書記官に転じ,さらに参事院内閣に移って帝国議会開設の準備に当たった。議会開設とともに衆議院書記官長として初めての議事運営を指導した。1892年代議士となり,衆議院副議長に選ばれたが,翌年駐仏公使に転じ,条約改正交渉を担当した。98年第3次伊藤博文内閣に法相として入閣,さらに第2次山県有朋内閣の農商務相となって産業組合法の制定などに尽力した。1901年からは第1次桂太郎内閣の蔵相として日露戦争の巨額の軍事費調達に当たり,戦後,枢密顧問官で馬政局長官を兼ねた。07年から韓国統監伊藤博文の下で副統監,09年統監となったが,政府や軍部韓国併合方針と意見があわず,10年病のため辞任した。山県有朋系の官僚として重用されたが,韓国統監としては失意退陣を余儀なくされた。
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朝日日本歴史人物事典 「曾禰荒助」の解説

曾禰荒助

没年:明治43.9.13(1910)
生年嘉永2.1.28(1849.2.20)
明治期の官僚,政治家。山口藩家老の子として生まれ,藩校明倫校に学ぶ。戊辰戦争(1868~69)に従軍し,維新後は軍人を志して大阪兵学寮幼年学舎に入学,フランスに留学し帰国後は法制官僚として活躍する。明治23(1890)年に帝国議会が始まると衆議院書記官長に就任,議事運営の慣行作りに尽力,翌年は自ら立候補して当選し,副議長となる。26年駐仏公使として条約改正に尽力,さらに31年には第3次伊藤博文内閣で司法大臣となり司法省の刷新,法典編纂に努める。その後,山県有朋内閣の農商務大臣を務め,34年第1次桂太郎内閣の大蔵大臣に就任,日露戦争(1904~05)時には資金調達に当たった。39年には枢密顧問官,42年には韓国統監と要職歴任する。40年子爵。有能な法制・実務官僚として,近代日本の多方面での建設に携わり,その基礎を築いた。<参考文献>美濃部俊吉編『西湖曾禰子爵遺稿並伝記資料』

(季武嘉也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「曾禰荒助」の解説

曾禰荒助 そね-あらすけ

1849-1910 明治時代の官僚,政治家。
嘉永(かえい)2年1月28日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士曾禰祥蔵の養子となる。明治5年フランスに留学。25年衆議院議員。伊藤,山県,桂各内閣の法相,農商務相,蔵相を歴任。42年韓国統監となり韓国併合をすすめた。貴族院議員,枢密顧問官。明治43年9月13日死去。62歳。長門出身。本姓は宍戸。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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