曾静
そうせい
Zeng Jing; Tsêng Ching
[生]康煕18(1679)
[没]雍正13(1735)
中国,清初の学者。湖南省永興の人。朱子や呂留良 (りょりゅうりょう) の思想に傾いて反清の念を強め,雍正6 (1728) 年に四川,陝西総督の岳鍾きに謀反をすすめ,捕えられた。この取調べから,彼らの転向の経過などを集め,曾静の「帰仁説」 (転向書) を付したものが『大義覚迷録』である。呂留良は死後もその墓をあばかれ一族は厳刑を受けたが,雍正帝は寛大を示すために曾静の罪を許した。しかし乾隆帝の即位とともに処刑された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の曾静の言及
【大義覚迷録】より
…不分巻。雍正帝は,華夷の弁別に厳しかった朱熹(子),呂留良の思想に忠実であった曾静(1679‐1736)の謀反画策が発覚したのを契機に,漢民族のなかに満王朝の支配に反対する民族意識がなお根強く存在することを知った。そこで曾静を逮捕して訊問し,その主張に逐一論駁を加えて,みずからの支配の正当性を主張するとともに,この論駁の経過,それに関連する上諭,曾静の転向声明を併せて一書とし,思想教化の道具としたのである。…
【文字の獄】より
…これによって罪に処せられたものは数百人の多数にのぼったという。雍正年間(1723‐35)に入ると,科挙の試験官査嗣庭の出題に,〈維民所止〉とあったのを,雍正の文字の頭を刎(は)ねたものとして,不敬罪に処して獄死せしめ,あるいは反逆を企図した曾静が,[呂留良]の思想的影響を受けていたことが判明すると,呂留良の子等を死刑にするなど厳罰をもって臨んだ。しかし,転向した曾静に対しては,むしろ寛容を示し,その訊問の記録を《[大義覚迷録]》として頒布して,清朝支配の正当性を理論的に主張するなど,その思想支配はいっそう巧妙なものとなった。…
※「曾静」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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