ウォルフ(読み)うぉるふ(英語表記)Johann Rudolf Wolf

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウォルフ」の意味・わかりやすい解説

ウォルフ(Christian Wolff)
うぉるふ
Christian Wolff
(1679―1754)

ドイツ啓蒙(けいもう)期の哲学者、法学者。シュレージエン地方のブレスラウ(現、ポーランド領ブロツワフ)に生まれ、1699年イエナ大学で学び、1703年からライプツィヒで神学、哲学、数学を教え、1706年には師ライプニッツの推薦でハレに移り、1717年にハレ大学の正教授となった。その後フリードリヒ・ウィルヘルム1世によって国外に追放されマールブルクに逃れたが、1740年フリードリヒ2世(大王)に呼び戻されて貴族に叙せられ、啓蒙期の学問の中心として活躍した。

 その哲学思想はライプニッツ哲学の継承であるが、未組織であったライプニッツ哲学を整備し組織化し、またラテン語をやめてドイツ語で講義するなどその普及に努めたため、やがてライプニッツ‐ウォルフ学派の名を得るほどの大勢力を獲得するに至った。人間の知的能力に応じて理論的・実践的諸学をたて、数学・物理学から、歴史学・法学に至る壮大な学問体系を樹立した。彼の思想は、根本的には理性主義であるが、同時に経験主義的な考え方も内蔵しているところに啓蒙哲学としての特色がある。

 彼は、法学者プーフェンドルフSamuel Freiherr von Pufendorf(1632―1694)の影響を受けて、「良き行為と悪(あ)しき行為」という観点から、人間の義務、市民の義務としての自然法を説き、自然法の具体的表れが現実の法規定であるとした。君主と国民との関係についても、国民の共同利益を促進するための双務的義務関係にあるものとし、フリードリヒ大王に「君主は臣民の第一の下僕」といわしめた。1793年に施行されたプロイセンの「一般ラント法」Allgemeines Landrechtは、このようなウォルフの自然的義務論に基礎を置いたものであった。彼の法律論も、幾何学的概念の正確さと、それらの諸概念から論理的推論によって、自然法の法規をその隅々まで完結的な体系として構成すべきだと主張した。したがって法の妥当性の根拠は、厳格な幾何学的証明に求めることになった。このような手法は、後のパンデクテン法学概念法学に決定的影響を与えた。著作に『人間悟性の諸力についての理性的思考』(1712)、『神、世界、人間霊魂、あらゆる事物一般についての理性的思考』(1719)、『理性哲学もしくは論理学』(1728)、『第一哲学もしくは存在論』(1730)、『組織的に考察された自然法』全9巻(1740~1749)、『自然法・国際法提要』(1750)などがある。

[佐藤篤士・武村泰男 2015年2月17日]


ウォルフ(Hugo Philipp Jakob Wolf)
うぉるふ
Hugo Philipp Jakob Wolf
(1860―1903)

オーストリアの作曲家。スロベニアのウィンディッシュグレーツに3月13日生まれる。1875年から2年間ウィーン音楽院で学び、この間マーラーを知る一方、ワーグナーに心酔する。ウィーンの作曲家、指揮者、批評家と交際し、彼らの助力で批評家としても活動し、しばしばワーグナー賛美の記事を書いた。しかし健康に優れず短気だったため、貧乏な生活が続いた。88年から約2年間、霊感がほとばしるままメーリケ、アイヒェンドルフ、ゲーテによる歌曲集、スペインやイタリアの詩による歌曲集など、200曲近くを作曲した。このころ彼の援助者ケッヘルトの夫人メラニエと不倫の恋に落ちたが、これが創作意欲を刺激したといわれる。これらの歌曲は歌手イェーガーの努力により世に広まっていったが、その病(梅毒)はしだいに重くなり、オペラ『お代官様』や歌曲集『ミケランジェロの三つの詩』を作曲したのち、ウィーンの精神科病院で1903年2月22日に世を去った。ウォルフの作品の大半は歌曲で、シューベルト以後の芸術的ドイツ・リートの最後の頂点とみなされる。そこには叙情的、宗教的な歌曲のほか、皮肉やユーモアに富むものなどもあり、内容はきわめて多彩である。作曲に際しては詩がもっとも重視された。その結果、ことばの自然な抑揚がそのまま旋律となり、ピアノも雄弁に詩の内面を物語る。和声的には半音階が駆使され、リズムにも多くのくふうがなされている。

[石多正男]


ウォルフ(Friedrich Wilhelm Wolff)
うぉるふ
Friedrich Wilhelm Wolff
(1809―1864)

ドイツの社会主義的文筆家。シュレージエンの小農の子として生まれる。ブレスラウ大学在学中ブルシェンシャフト(学生組合)運動に参加、1842年以降、故郷の農民や織布工の窮状を訴える論説を発表した。代表作に、1844年の織布工の蜂起(ほうき)の原因と経過を論じた『シュレージエンにおける貧困と蜂起』(1847)や、プロイセン改革(シュタイン‐ハルデンベルクの改革)以後のユンカーによる農民の搾取を弾劾した『シュレージエンの十億』(1849)がある。他方、1847年以来、共産主義者同盟に参加し、三月革命ではマルクスに協力して『新ライン新聞』の編集に携わった。革命後、イギリスに亡命、1864年マンチェスターで没した。

[末川 清]


ウォルフ(Christa Wolf)
うぉるふ
Christa Wolf
(1929―2011)

ドイツの作家。ランツベルク(現、ポーランド領)の生まれ。ナチス政権崩壊後は旧東ドイツに育ち、1949年東ドイツの政党SED(ドイツ社会主義統一党)入党。ライプツィヒ大学でマイヤーHans Mayer(1907―2001)に学んだ。文学上はアンナ・ゼーガースの影響が強い。理論家として出発、『モスクワ物語』(1961)で創作に転じ、東西分裂と東ドイツの現実を扱った『引き裂かれた空』(1963)は「ビターフェルトの道」を実践し社会主義の日常を描出したとして高く評価された。党中央委員候補に選ばれたが、『クリスタ・Tの追想』(1968)で一個人としての自己を再発見し、『幼年期の構図』(1976)で国民の意識の空隙(くうげき)を歴史の問題として俎上(そじょう)に載せるに至って党中央の文化路線と決別、『どこにも居場所はない』(1979)、『カッサンドラ』(1983)で独自に文学の疎外の発生と歴史とのかかわりを追求した。ドイツ統一直後の『残るものは何か?』(1990)は東ドイツ時代のアリバイ証明だと批判されたが、『王女メデイア』(1996)を発表してその批判に応えた。

[保坂一夫]

『井上正蔵訳『引き裂かれた空』(1973・集英社)』『藤本淳雄訳『クリスタ・Tの追想』(1973・河出書房新社)』『保坂一夫訳『幼年期の構図』(1981・恒文社)』『保坂一夫・中込啓子訳『クリスタル・ヴォルフ選集』全7冊(1997~1998・恒文社)』


ウォルフ(Maximilian Franz Joseph Cornelius Wolf)
うぉるふ
Maximilian Franz Joseph Cornelius Wolf
(1863―1932)

ドイツの天文学者。ハイデルベルクに生まれ、同地の大学とストックホルムのオボ大学で学んだ。早くから天文学に興味をもち、1890年ハイデルベルク大学の天文学講師、1902年教授、その後同大学付置のケーニヒシュツール天文台長を兼任し、終生観測に専念した。広角写真機の長時間露出法を開発して天体観測に新紀元を画した。観測対象は小惑星、星雲、天の川に及び、1891年に小惑星の視運動軌跡を乾板上で検出する方法を創始して、約500個の小惑星を単独で発見した。1901年に立体比較測定器を作製して多数の恒星の固有運動を実測した。星雲の発見数は数千個に及ぶ。

[島村福太郎]


ウォルフ(Casper Friedrich Wolff)
うぉるふ
Casper Friedrich Wolff
(1733―1794)

ドイツ、のちにロシアの解剖学者、発生学者。ベルリンで医学を修め、1767年以来サンクト・ペテルブルグ学士院会員となった。発生学では、いくつかの器官発生の顕微鏡観察から、後成説(発生の際、単純な状態から複雑な状態に発展し、構造が新たに生じるとする説)を主張し、またニワトリ胚(はい)の腸が平らなものからくびれて生じることを発見した。さらに、植物の諸器官が葉の変形したものであり、動物でも諸器官は葉状のものから生じると考えて、胚葉説の先駆をなした。主著『発生の理論』Theoria generationis(1759)。

[八杉貞雄]


ウォルフ(Johann Rudolf Wolf)
うぉるふ
Johann Rudolf Wolf
(1816―1893)

スイスの天文学者。チューリヒ近郊に生まれ、同地の工科大学を卒業後、さらにウィーン大学、ベルリン大学で天文学を専攻。1839年ベルン工業専門学校教授、1844~1855年ベルリン大学とチューリヒ大学との兼任教授、1864年チューリヒ大学付置天文台を創設し台長に就任。太陽観測に精進し、太陽活動の定量的表示法として「ウォルフ黒点相対数」を考案、設定し、1852年にその消長周期が11.1年であることを確認した。1877年には名著『天文学史』を刊行した。

[島村福太郎]


ウォルフ(Friedrich Wolf)
うぉるふ
Friedrich Wolf
(1888―1953)

旧東ドイツの劇作家、詩人。ブレヒトと並ぶドイツ社会主義文学の代表的作家。ドイツ民主共和国の初代駐ポーランド大使。ユダヤ人実業家を父としノイビートに生まれる。大学で医学を修め、船医、軍医も務めた。「芸術は武器」をモットーにナチスに抵抗。亡命後も精力的に文筆活動を続けた。つねに反権力の立場を貫き、革命劇『カッタロの水夫達(たち)』(1930)、ユダヤ系医師に対するナチスの暴虐をえぐり出す戯曲『マムロック教授』(1934)、農民戦争のクライマックスを描く戯曲『トーマス・ミュンツァー』(1953)など、歴史と現実社会に素材を求め、権力階級の陰謀と醜悪、被圧迫階級の抵抗と反乱をきわめて鋭い感覚で表現した。

[得津伸三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウォルフ」の意味・わかりやすい解説

ウォルフ
Wolff, Christian

[生]1679.1.24. ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没]1754.4.9. ハレ
ドイツの哲学者,法学者。イェナ大学で数学と哲学のほかグロチウスプーフェンドルフの著作を学び,教授資格論文が機縁となってライプニッツに注目され,その推薦でハレ大学の数学教授となった。その後,マールブルク大学に移ったが,やがてハレ大学に戻って学長にもなった。ライプニッツの哲学を発展させて,包括的な体系を樹立した。その哲学はライプニッツ=ウォルフの哲学と称せられ,その存在論はカトリックから歓迎された。法思想家としても 18世紀のグロチウス学派を代表する。主著『合理論哲学』 Philosophia rationalis (1728) ,『第1哲学すなわち存在論』 Philosophia prima sive ontologia (29) ,『科学的方法による自然法』 Jus naturae methodo scientifica pertractatum (40~48) ,『科学的方法による国際法』 Jus gentium methodo scientifica pertractatum (49) 。

ウォルフ
Wolf, Christa

[生]1929.3.18. ランツベルクアンデアワルテ
[没]2011.12.1. ベルリン
ドイツの作家。旧姓 Ihlenfeld。親ナチスの中流家庭に育ち,第2次世界大戦後に家族とドイツ民主共和国(東ドイツ)に移住した。イェーナ大学,ライプチヒ大学に学び,1962年まで東ドイツ作家同盟機関誌の編集者を務めた。1993年に秘密警察シュタージへの協力が発覚して西側での評価が下がった。第一作『モスクワ物語』Moskauer Novelle(1961)を発表したのち,長編『引き裂かれた空』Der geteilte Himmel(1963,1964映画化)で東西に引き裂かれた男女の恋愛を描き,ベストセラーとなった。同書でハインリヒ・マン賞を受賞。ほかに,『クリスタ・Tの追想』Nachdenken über Christa T.(1968),『幼年期の構図』Kindheitsmuster(1976),『カッサンドラ』Kassandra(1983),『チェルノブイリ原発事故』Störfall(1987),『残るものは何か?』Was bleibt(1990)など。2002年ドイツ文芸賞を受賞。

ウォルフ
Wolff, Hans Walter

[生]1911.12.17. バルメン
[没]1993.10. ハイデルベルク
ドイツのプロテスタント神学者。旧約聖書学者。ベテル神学大学,ゲッティンゲン大学,ボン大学に学び,ミュンスター,ゾーリンゲン,ゾーリンゲン・ウァルトなどで牧師をつとめたのち,1951年ブッパータール神学大学教授。次いでマインツ大学教授を経て,67~78年ハイデルベルク大学教授。主著は『旧約聖書の人間論』"Anthropologie des Alten Testaments" (1974) のほか,"Die Zitat im Prophetenspruch" (37) ,"Jesaija 53 im Urchristentum" (52) ,"Alttestamentliche Predigten mit hermeneutische Erwägungen" (56) ,"Gesammelte Studien zum Alten Testament" (73) など。

ウォルフ
Wolff, Kaspar Friedrich

[生]1733.1.18. ベルリン
[没]1794.2.22. ペテルブルグ
ドイツの解剖学者,生理学者,博物学者。近代発生学の創始者。ハレ大学に学び,卒業後軍医となり,のちベルリン大学の講師となった。各器官は発生の最初からすでにできているという,当時支配的であった前成説に対して,ニワトリの卵にみられる腎臓,消化管,血管など諸器官の形成過程を顕微鏡で観察し,後成説を説いたが攻撃を受け,1764年ロシア皇帝の招きでロシアに去り,ペテルブルグの科学アカデミー会員として死ぬまでロシアにとどまった。 59年には『発生論』を,68年には『小腸の形成』を出版。腎臓の発生も研究し,中腎を発見,中腎はウォルフ体と呼ばれている。また植物の諸器官は葉の変化したものであることを説き,動物にもそれに相当する原基が存在するとし,胚葉概念の先駆をなした。彼は,また,植物も動物も細胞からできていることを指摘した最初の一人である。

ウォルフ
Wolf, Max

[生]1863.6.21. ハイデルベルク
[没]1932.10.3. ハイデルベルク
ドイツの天文学者。フルネーム Maximillian Franz Joseph Cornelius Wolf。ハイデルベルク大学私講師(1890),員外教授(1893)を経て 1902~32年教授。また私設のケーニヒシュトール天文台を経営し,1893年台長。フィルム自動送りカメラを用いて掃天撮影し,比較的動きの速い小惑星が線分となって撮影されることから,一挙に 228個もの小惑星を発見。特に 1906年の立体コンパレータを用いた小惑星アキレスの発見は有名。ほかに銀河系内の暗黒星雲の存在も明らかにした。

ウォルフ
Wolf, Hugo (Philipp Jacob)

[生]1860.3.13. ウィンディッシュグラーツ(現スロベニグラデツ)
[没]1903.2.22. ウィーン
19世紀オーストリアのロマン派リートの代表的作曲家。 1875年ウィーン音楽院に入学,作曲を学んだが,77年退学。ワーグナーに傾倒し終生熱烈なワーグネリアンとなり,文学や演劇を深く研究してすぐれた審美眼をそなえた。 83年『ウィーン・サロン新聞』の音楽批評を担当し,鋭い筆をふるう。 88年以降,眠っていた彼の楽才は突如として花開き,メーリケの詩による歌曲 (53曲) ,ゲーテ (50曲) ,ハイゼとガイベル (44曲) ,ハイゼ (46曲) ,ミケランジェロ (3曲) など集中的に作曲。しかし,神経を病み,悲惨な狂気と夢想のうちに一生を閉じた。

ウォルフ
Wolf, Friedrich

[生]1888.12.23. ノイビト
[没]1953.10.5. レーニッツ
東ドイツの劇作家,小説家。第1次世界大戦には軍医として従軍,かたわら表現主義の戯曲『マホメット』 Mohammed (1917) を発表して文壇に登場。 1928年共産党に入党,33年以降スイス,フランスを経てソ連に亡命,反ナチス運動に従事した。この間にユダヤ人迫害を批判した戯曲『マムロック教授』 Professor Mamlock (33) ,小説『国境の2人』 Zwei an der Grenze (38) を書いた。第2次世界大戦後は東ドイツに帰国し,文化再建に尽力。

ウォルフ
Wolff

ドイツの通信社。ベルンハルト・ウォルフが 1849年に創設。 75年株式会社に改組してからの正式名称は大陸電報会社。フランスのアバスと並ぶ大通信社であったが,第1次世界大戦でのドイツの敗戦で衰退しはじめ,1933年ナチス・ドイツの DNBに吸収された。

ウォルフ
Wolf, Friedrich August

[生]1759
[没]1824
ドイツの古典学者。 1783~1806年ハレ大学古典文献学教授。ホメロスについての研究で著名。主著『ホメロス序説』 Prolegomena ad Homerum (1795) 。 (→ホメロス問題 )  

ウォルフ
Wolff, Jacob

[生]1546頃
[没]1612
16世紀末から 17世紀前半,主としてニュルンベルクで活躍したドイツの建築家。ルネサンス様式をドイツの市民建築に適用。主作品はニュルンベルクのベルラーハウス。同名の子 (1571~1620) も建築家で,同市庁舎の増築 (1616~22) を行なった。

ウォルフ
Wolff, Paul

[生]1887
[没]1951
ドイツの写真家。元来医者であったが,のち写真家に転向。もっぱらドイツのライツ社製 35ミリカメラのライカを愛用し,また,巧みな引伸し術によってライカの実用性を印象づけた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報