中国,清朝第6代皇帝。在位1735-95年。名は弘暦。廟号は高宗。雍正帝の第4子。1735年に即位してより,全盛期の清朝に60年間君臨し,退位後の4年間も太上皇帝として訓政を行った。当初,雍正帝の厳格な政治の弊害を矯(た)めようとしたが,諸事廃弛する結果となり,以後その政治はかえって過酷に傾いた。しかし,イギリスやヨーロッパ諸国との茶・絹貿易により大量の銀が流入し,未曾有の好景気がもたらされるという恵まれた経済条件は,華麗な宮廷生活と大がかりな軍事行動を可能にした。
つとに清朝に帰属していたチベットにおいて,ジュンガルと内通した反乱が起きてからは,王をたてずダライ・ラマに総攬させ,清朝派遣の駐蔵大臣の監督権を強め,ジュンガルとの交通を厳禁してチベット支配を完全なものにした。ジュンガルとはアルタイ山脈を境界とするということで和議が成立していたが,45年(乾隆10),ガルダン・ツェリンの死とともに内紛が生じ,有力者アムルサナが清朝に投降してきた。これを好機に,乾隆帝は消極策をおしきり,55年,ジュンガルに出兵し,イリ(伊犂)を平定した。のちアムルサナが自立をはかると再度出兵し,58年,最後の遊牧騎馬民族国家といわれるジュンガルを滅亡させた。ついでカシュガル,ヤルカンドにも進撃し,59年ホージャ兄弟を駆逐して東トルキスタン全土を征服した。こうして新しい土地という意味で新疆省が設置され,内陸アジアには政治的安定がもたらされ,朝貢国となったホーカンド,カザフを通じ清朝の銀が流出し活発な国際商業が展開された。また,雲南,貴州のミヤオ(苗)族および四川西辺の土司大小金川への派兵も数次にわたり,改土帰流策をすすめたが,多大な出費を要したわりには得るところが少なかった。このほか,シャム(現,タイ),ベトナム,ビルマ(現,ミャンマー)を朝貢国とし,台湾の天地会による反清暴動を鎮圧した清軍はさらに,91年,チベット侵入をはかったグルカへ遠征し,カトマンズの近くにまで迫った。乾隆帝はかかる武功を誇り,《御製十全記》を作り,みずから十全老人と称した。
多民族に君臨する自負から,帝はモンゴル文,チベット文を誦習し,明確な政策的意図をもってラマ教を信仰した。しだいに衰えかかってきた母国語満州語の保存にも意を注ぎ,蔵経(チベット大蔵経)の満州語訳をすすめ,満州語,漢語,トルコ語,モンゴル語,チベット語の対訳辞書ともいうべき《五体清文鑑》を作成した。また,膨大な《四庫全書》を編纂すると同時に,厳しい禁書策をとり思想統制を行ったことは,清一代の学である考証学の隆盛を促した。宮廷にはイタリアの宣教師カスティリオーネが出仕し,ヨーロッパ風の絵画を描き,円明園の西洋建築の設計にも関与し,華やかさをそえた。しかし〈馬上朝廷〉という異名が朝鮮にも伝わるほど巡幸を重ねたことは,民間の疾苦の因となり,和珅(わしん)を寵愛しその貪横を許すなど失政も目だち,晩年には大規模な白蓮教の乱が勃発して,その鎮圧は次代に持ちこされたのである。
執筆者:森 紀子
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中国、清(しん)朝第6代の皇帝(在位1735~95)。名は弘暦(こうれき)。廟号(びょうごう)は高宗。年号によって乾隆帝という。康煕(こうき)・乾隆と並称される清朝全盛期の頂点にたった。雍正帝(ようせいてい)の第4子。祖父の康煕帝に愛され宮中で養育され、次の皇帝を予定されていた。1735年8月、雍正帝が死ぬと帝位につき、乾隆銭の鋳造を始めたが、中国の習慣で翌年を乾隆元年とした。すでに清朝が北京(ペキン)へ入ってから90年、満洲族の征服王朝に対する中国人の違和感も薄らぎ、安定は豊熟を、活況は充実を約束していた。康煕・乾隆期の活力は百数十年前の明(みん)代の嘉靖(かせい)・万暦(ばんれき)の再生だった。新しい産業の刺激や新しい技術の開発によるものでなく、発酵熱のような民力の高まりであった。
征服王朝はこれを背景に領土拡張に熱心で、乾隆帝は初め祖父の寛容と父の厳格の中道をいくといったが、征服意欲は3代共通していた。乾隆帝は晩年、自分が辺境に10回出兵して大功をあげたことを誇り十全詩を詠じ、自ら「十全老人」と号したのも、中国人王朝の果たしえなかった事業を成し遂げたという自負であったろう。彼の遠征はジュンガル、グルカ、金川(きんせん)へ2回ずつ行い、回部、台湾、ビルマ(現ミャンマー)、ベトナムと、周辺地域を領土化したり、宗主国となしたりした。北西部で頑強だったジュンガルを壊滅させ、天山南・北路を確保し、ネパールのグルカ人を降してチベット支配を安定させ、ビルマ、ベトナムを朝貢国とし、タイやラオスまで朝貢させた。中国史上空前の大領土を支えた社会の活力は商品流通の拡大と市場組織の整備とから生まれたようである。これはまた銀の増産と海外からの大量流入が潤滑油となって商品移動とその生産を増加させ、軍事費を賄うことになった。乾隆帝はその60年の治世の間に南巡6回、西巡5回、東巡4回と全国巡幸を繰り返して太平を誇示し、また各省輪番でその正賦を全免すること4回、そのほかたびたび税の減免を行って専制皇帝の善政意欲を満足させた。前代の万暦の繁栄が、明朝は万暦で滅んだといわれたように奢侈(しゃし)で食いつぶされてしまったのに対し、このようなブレーキが清朝をなお1世紀余り存続させた。
帝は、祖父と父が熱心だった編集事業の締めくくりとして『四庫全書』を完成させた。当時収集できる重要な書物を網羅し、多くの学者を動員して厳密な校訂を加え、経、史、子、集の四部(しぶ)に分けて全国7か所に収蔵させた。賞賛に囲まれた時代の安定も腐敗の種子が汚職から芽生えていた。八旗漢軍出身の李侍堯(りじぎょう)は雲貴総督となって収賄で弾劾されたが帝の特赦で助けられ、なお高官を続け、八旗満州出身の和珅(わしん)は軍機大臣となり帝の寵愛(ちょうあい)を頼んで私欲の限りを尽くし、積んだ私財は国家収入の十数年分に達したという。帝は在位60年で祖父康煕帝の在位を越えるのをはばかって嘉慶(かけい)帝に譲位。太上皇帝として訓政3年、宮廷に上皇派と皇帝派が対立したが、すでに清朝衰退の転機となった白蓮教(びゃくれんきょう)の乱が起こり始めていた。裕(ゆう)陵に葬られた。
[増井経夫]
『後藤末雄著『乾隆帝伝』(1942・生活社)』
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1711~99(在位1735~95)
清の第6代皇帝。名は弘暦,廟号は高宗,乾隆は年号。60年にわたる治世は,康熙(こうき)帝,雍正(ようせい)帝のあとを受けて清の全盛期にあたり,内治外征に輝かしい成果をあげた。みずから学を好み,学術を奨励して四庫全書をはじめ多くの書物を編纂したが,他方,禁書や文字の獄により政治の批判を禁じた。金川(きんせん)土司(どし)の乱を平定し,ジュンガル部を滅ぼして,新疆(しんきょう)を藩部に加え,グルカに遠征するなど清の版図を拡大し,みずから「十全の武功」と誇った。1795年子の嘉慶(かけい)帝に譲位したが,晩年には綱紀がゆるみ,この年白蓮(びゃくれん)教徒の乱が起こった。
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… 元・明時代,金石文の研究は一時下火となったが,清代,考証学の興隆とともに再び活発化した。1755年(乾隆20),乾隆帝は徽宗にならって図録集《西清古鑑》40巻を勅撰して気運を盛り上げ,1804年(嘉慶9),阮元(げんげん)が薛尚功を継承して《積古斎鐘鼎彝器款識》10巻を刊行した。この書は,こののち器形からひとまず離れ銘文だけを研究する清朝金文学,文字学に大きな影響を与えた。…
…中国最大の叢書。清朝の乾隆帝が,入手できる限りの書籍を集め,主要な3457部を一定の書式に従って筆写させ,自己の蔵書としたもの。経・史・子・集の四部に分類されて保管されたので四庫の名がある。…
…ついで83年には,長年台湾に拠って抵抗をつづけていた鄭氏一族(鄭成功)も下り,ここに清朝の支配体制の基礎が確立したのである。これより清朝は,聖祖康熙帝,世宗雍正帝,高宗乾隆帝の3代にわたり,18世紀末まで最盛期を迎える。清朝は満州族の征服国家であるから,一面では八旗制度のように満州族特有の制度をもち,その維持につとめたが,他面明朝の制度を大幅に継承する二重体制の国家であった。…
※「乾隆帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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