日本大百科全書(ニッポニカ) 「呂留良」の意味・わかりやすい解説
呂留良
りょりゅうりょう
(1629―1683)
中国、明(みん)末清(しん)初の民族主義思想家。号は晩村(ばんそん)。浙江(せっこう)省石門の人。明清交代の激動期に青少年時代を送り、25歳で院試に合格したが、黄宗羲(こうそうぎ)ら明の遺老との交際を通じて激しい排満思想を育て、朱熹(しゅき)(朱子)を尊び王守仁(しゅじん)(王陽明)を否定し、その名声はすこぶる高かった。彼の没後四十数年を経た1729年、その思想に共鳴した曽静(そうせい)の排満挙兵事件が起き、このため1732年留良とその子は戮屍梟示(りくしきょうじ)(墓を暴き首を晒(さら)すこと)に付され、残った子孫も奴隷とされて呂一族は崩壊した。彼の思想の核心は華夷(かい)の別と堯舜(ぎょうしゅん)の黄金時代への復帰にあり、排満攘夷(じょうい)こそ春秋の大義であり、井田(せいでん)封建の復活によってのみ理想政治の実現が可能であるとした。
[三石善吉 2016年2月17日]
『山井湧他編『朱子学大系 第11巻 朱子の後継 下』(1978・明徳出版社)』