最勝寺村(読み)さいしようじむら

日本歴史地名大系 「最勝寺村」の解説

最勝寺村
さいしようじむら

[現在地名]増穂町最勝寺

青柳あおやぎ村の西に位置し、北西から南東方向に川が流れ、南端畔沢くろさわ川が東流して戸川に流入する。戸川左岸沿いに青柳村の飛地がある。村名は真言宗の古刹最勝寺が所在することによる。集落は戸川左岸の上村わでむら中小路なかこうじ下村しもむら北原きたはら新田しんでん右岸西にしいり馬門まかどからなる。馬門は村の南東端をかすめる駿州往還に近い集落で、永禄四年(一五六一)の番帳の四六番に「まかとの禰き」、慶長一三年(一六〇八)の番帳の四五番に「馬門之禰宜」がみえる。これは同所の神明社の禰宜(矢崎家)であろう。

慶長六年の最勝寺郷検地帳(県立図書館蔵)があるが、一部であるため村全体の数値は不明。慶長古高帳によると高三三九石余、幕府領

最勝寺村
さいしようじむら

[現在地名]富山市蜷川にながわ

熊野くまの川と川の間に位置し、北は黒崎くろさき村。飛騨街道が南北に走る。中世蜷川郷の中心地とみられ、宮道氏を祖とする太田氏の支族蜷川氏名字の地とされる。蜷川郷は南北朝動乱の過程で太田おおた保など多くの国衙領と同様闕所地化し、のちに幕府関係者の所領と化していたようである。やがて足利義政の妾であった大館佐子(大館持房娘、義政死後陽西院)越中の蜷川などの所領が寄進されたが、文亀三年(一五〇三)二月段階には佐子の兄弟で僧録となった景徐周林に伝えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報