改訂新版 世界大百科事典 「蜷川氏」の意味・わかりやすい解説
蜷川氏 (にながわうじ)
本姓宮道氏。越中国新川郡蜷川村に住して蜷川を称したという。鎌倉時代以前の事跡は明らかでない。家伝によれば,建武のころ蜷川親行は,足利氏の近臣で後に政所(まんどころ)執事となる伊勢貞継の仲介で足利氏に仕えた。親行の妹は貞継の息貞信の妾となって伊勢貞行を生むなど代々伊勢氏と婚を通じ,伊勢氏の家宰あるいは将軍の養い親として重きをなすようになった。伊勢氏が政所の長官に当たる執事になると政所代になって政所の実務処理に当たり,また故実にも通じていたので政界で重きをなした。親当(ちかまさ)は智蘊と号し,幕臣としてより連歌師として著名で,二条良基と宗砌(そうぜい)の中間に位置する人物として知られる。親当の子親元(1433-88)は伊勢貞宗の被官として8代将軍義政に仕え,応仁の乱前後の政情を記した日記《蜷川親元日記》を残し,親元の子親孝(?-1525),曾孫の親俊(?-1569)も《蜷川親孝日記》《蜷川親俊日記》を残す。政所の政務処理の過程で作られる訴状や裁許状の控は〈賦引付(くばりひきつけ)〉〈御判(ごはん)引付〉などと呼ばれるが,売買,貸借,質入れなど政所所管事項の実務を記録するこれら記録は,すべて蜷川氏によって筆録されたもので,中世後期の経済界,とりわけこの時期に頻発する徳政一揆の背景を知りうる史料として貴重である。蜷川家にはこのほかにも多数の文書,記録が伝えられ,法令,文書の草案,古記録よりの抜書,覚書など2軸27冊に上る史料は室町幕府政所の活動を知るうえで欠かすことができない。親俊の子親長は幕府の衰微により長宗我部元親を頼って土佐に下り,当時の長宗我部氏の居城岡豊(おこう)城下に所領を与えられた。のちに親長は,関ヶ原の戦で西軍に属し城地を没収された長宗我部氏の浦戸城接収に功績をあげ,これを機に徳川氏に仕え旗本となった。
執筆者:桑山 浩然
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報