増穂町(読み)ますほちよう

日本歴史地名大系 「増穂町」の解説

増穂町
ますほちよう

面積:六五・一六平方キロ

郡の東部北端にあり、甲府盆地南端富士川の西岸(右岸)に位置する。富士川に注ぐ川と利根とね川が形成する扇状地平野とその背後の山地に発達した地域である。町の西部には櫛形くしがた(二〇五一・七メートル)まる(一九一〇・三メートル)烏森からすもり(一九〇七・六メートル)八町はつちよう(一五二一・一メートル)などの巨摩山地に属する高山がそびえる一方、青柳あおやぎ地区の富士川氾濫原は標高二四二メートルで甲府盆地の最低所である。北は中巨摩郡甲西こうさい町・櫛形町・芦安あしやす村と接し、東は富士川を隔てて西八代郡市川大門いちかわだいもん町に対する。西は北湯川きたゆかわ峡谷を境として早川はやかわ町と、南は鰍沢かじかざわ町と接する。富士川の対岸から当町を望むと、櫛形山から八町山にかけて山々が連なり、その中腹に平林ひらばやし、左手の山地に小室こむろ高下の穂積たかおりのほづみ地区があり、山裾から富士川の河川敷に至るなだらかな地域に、里方の集落が緑の木々に囲まれた寺社を点在させながら分布している風景が見られる。増穂の町名は明治七年(一八七四)に近世以来の一〇ヵ村が合併した際、どの旧村名とも関係なく、稲作の豊穣を願って付けられたと考えられる。

旧石器時代の遺物は、かつて平林地区の大平おおだいら遺跡から出土したといわれているものの、具体的な状況は明らかになっていない。縄文時代になると、早期の鵜ヶ島台式土器が大平遺跡で出土し、東海地方の入海式段階の土器を伴う集石遺構が大明神だいみようじん遺跡で検出されている。前期の遺物は小室地区の檜平ひのきだいら遺跡でわずかに認められる程度であり、そのほかはほとんどが中期である。縄文期の遺跡立地は大きく西側の巨摩山地内と、戸川や利根川によって形成された扇状地上に分布が分れるが、前者には平林地区の向林むこうばやし・大平・南平みなみだいらなどの遺跡、後者には舂米つきよね地区の上平わでいら遺跡・中尾田なかおだ遺跡、最勝寺さいしようじ地区の平野ひらの遺跡・大堀田おおはつた遺跡などがある。大平遺跡は主体は中期後半の曾利期の遺跡であるが、中期前半の五領ヶ台式をはじめ中葉の新道・貉沢・藤内の各時期の土器群もみられ、中期全般にわたって生活が営まれていたことが知られる。弥生時代の遺跡は山裾に立地するものとして、弥生末期の土器が出土している大久保広見おおくぼひろみ遺跡や西にしいり遺跡・馬門まかど遺跡など、扇状地の湧水付近に存在するものとして長沢平池ながさわひらいけ遺跡や長沢長池ちよういけ遺跡などがみられる。弥生最末期から古墳時代初頭の遺跡も多いが、そのなかで特筆されるのは最勝寺の平野遺跡である。ここでは隅丸方形を呈した竪穴住居跡が二五軒も確認されており、しかも多くが火災を受けていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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