青柳村(読み)あおやぎむら

日本歴史地名大系 「青柳村」の解説

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]増穂町青柳町

現増穂町の東端に位置し、東は富士川に面する。南は川の北側に入り込んでいる鰍沢かじかざわ(現鰍沢町)新田しんでん地区に続き、西は最勝寺さいしようじ村・天神中条てんじんなかじよう村と接する。村内を南北に駿州往還が貫通し、その両側に人家が並ぶ街村的形態を示す。また甲州三河岸の一つ青柳河岸があった。東側は富士川との間に水田が広がり、これは明治末に耕地整理が行われたため(内田正勝家文書)、きわめて整然としている。一方、駿州往還と最勝寺村・天神中条村との境をなす道に挟まれた西側は果樹栽培や畑作が行われていた。駿州往還は村の北部の追分おいわけで、長沢ながさわ村からばらざわ宿(現甲西町)を経て韮崎で甲州道中に合流する駿信往還を分岐する。なお当村分の飛地が最勝寺村内を北西から南東に流下する戸川の南東部に川沿いに細長く存するが、これは戸川の普請を一部当村が行ってきたことと関連しているものと思われる。天文一二年(一五四三)七月二二日の武田晴信印判状写(甲斐国古文書)に「青柳之文六 家壱棟別免許候也」とみえる。当地は戦国期から宿的機能を有していたと推定され、天正八年(一五八〇)九月には武田氏によって正式に青柳新宿が立てられた(同月一八日「武田勝頼印判状写」甲斐国古文書)

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]大江町柳川やながわ

月布つきぬの川上流、周辺山地から流下する小河流が合わさる小河谷平地にある。東は沢口さわぐち村。村域は広く、朝日あさひ山地から北東に延びる河谷に、七夕畑たなばたけ長畑ながばたけ徳沢とくさわ道知畑どうちばた南又みなみまた切留きりどめ矢引沢やびきざわさわの枝郷がある。最上氏領から元和八年(一六二二)以降幕府領。寛永検地の高一八一石余(最上記)。正保郷帳では田方一四三石余・畑方三七石余・寺社領二一石余。嘉永元年(一八四八)の村山郡石高帳では高一六一石余。畑作の主体は青苧で、山間の傾斜地に植栽された。とくに品質が優れた青苧の生産地は、南向きで土地の肥えた斜面のある七夕畑であった。畑のつく地名は、いずれも青苧の産地で、ほかに養蚕・木灰つくりもした。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]市原市青柳・青柳緑地あおやぎりよくち青柳北あおやぎきた

五井ごい村の南西方に位置し、西方には砂洲が広がる。房総往還が通る。応安五年(一三七二)五月の市原八幡宮五月会馬野郡四村配分帳(覚園寺文書)に青柳郷とみえ、宮の五月会では物申・紙漉・番匠・浦兄部・土器師らの酒・菓子・粽などを負担している。応永期(一三九四―一四二八)と推定される馬野郡惣勘文(同文書)では一二町一反三〇〇歩とする。天正一九年(一五九一)七月の知行書立朱印状写(御感証文集)に「上総姉崎近辺青柳之郷」とみえ、旗本栗生領。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三一九石。慶安二年(一六四九)の検地帳(慶応大学蔵)では田一四町七反余・分米一一四石余、畑四二町五反余・分米一七九石余、屋敷一町四反余・分米一四石余。元禄郷帳では高三七七石余。享保九年(一七二四)より佐貫藩領となる(「阿部正鎮領知目録」阿部家文書)

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]草加市青柳一―八丁目・青柳町

曲流しながら南へ流れる古綾瀬ふるあやせ川東岸にある。埼玉郡八条はちじよう領に属し(風土記稿)、東は八条用水を隔てて同郡柿木かきのき村および八条村(現八潮市)、南は同郡たてほり村、西は古綾瀬川を隔てて足立郡槐戸さいかちど村・篠葉しのは村、北は埼玉郡麦塚むぎづか(現越谷市)。寛永四年(一六二七)九月の検地帳の表紙には「武蔵国騎西郡八条之内青柳村御検地帳」と記され、田畑反別は一九町一反余(「南青柳村地誌」旧川柳村役場所蔵文書)。田園簿では田九三一石余・畑一五七石余、幕府領。寛文四年(一六六四)江戸城奥医師で旗本の塙宗悦・奈須玄竹に当村内各で五〇〇石が与えられ、幕府領と合せ三給となった(「寛政重修諸家譜」など)。同一二年の旗本二氏分の地詰改帳(藤波家文書)では塙領は高五七五石余で田五九町一反余・畠屋敷一九町余、「御上水潰地之覚」という付箋があり、表高五〇〇石に新田高がのちに加えられたものであることがわかる。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]国立市青柳一丁目・同三丁目・青柳・西にし一―三丁目

上谷保かみやぼ村の西にあり、甲州道中に沿って集落が形成されている。西は柴崎しばざき(現立川市)、南は多摩川を越えて石田いしだ荒井あらい万願寺まんがんじの三ヵ村(現日野市)、北は榎戸えのきど新田(現国分寺市)。石田新田と耕地・住居が錯綜している。「和名抄」記載の多磨たま小楊おやぎ郷の遺称地とする説がある(風土記稿)。高幡山金剛こんごう(現日野市)の不動明王坐像に納められた南北朝初期の胎内文書のうち、彦四郎という人物の年不明一一月八日付などの書状の宛名として青柳郷の在地領主とみられる青柳三郎が登場する。

幕末から明治初めにかけて書かれた青柳根元録(佐藤家文書)によると、もとは多摩川南岸の一ノ宮いちのみや関戸せきと両村(現多摩市)と地続きの鎌倉道、別名じん街道ともいわれる街道に面した地にあった。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]館林市青柳・分福町ぶんぷくちよう

近藤こんどう沼の北東方にあり、南境を谷田やた川が東流する。北は小桑原こくわばら村・近藤村、東は堀工ほりく村、南は谷田川を隔てて南大島みなみおおしま村・矢島やじま(現邑楽郡明和村)。集落の東端付近を日光脇往還が南北に走る。古くから武蔵・下野国方面へ通じる要路で、文明一九年(一四八七)当地を通った聖護院道興は、三月二日「とね川、青柳、さぬき庄、館林」を過ぎて佐野さの(現栃木県佐野市)へ向かった(廻国雑記)。「永正十五年道者日記」にも「あをやきもろ殿」がみえる。また「鶏足寺世代血脈」には応永(一三九四―一四二八)ごろ武州萩沢はぎさわ金光こんこう寺別当弘成が「佐貫庄青柳二王堂」で伝法灌頂を行ったとある。

青柳村
あおやなぎむら

[現在地名]富山市青柳

熊野くまの川右岸に位置し、西は牧田まきだ村、東は大井おおい村・今町いままち村。中世初頭以前に国衙領として太田おおた保内の一村として成立していたとみられ、一二世紀初頭に下向した在庁官人の由緒をもつ太田氏の支族蜷川氏の私領であったと思われる。応永二〇年(一四一三)一二月一一日の越中国棟別銭免除在所注文(東寺百合文書)では、青柳は室町幕府政所執事伊勢氏の支配下に置かれ、御料所化されている。大井の妙伝みようでん寺に慶長一〇年(一六〇五)下付された本尊絵像裏書に「越中国婦負郡青柳村」、地内の浄土真宗本願寺派性宗しようしゆう寺に同一三年九月三日下付された本尊絵像裏書に「瑞泉寺門徒、越中国婦負郡青柳村性宗寺」とあり、この頃まで当地域は婦負ねい郡に属していた。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]狭山市青柳・新狭山しんさやま、川越市南台みなみだい一丁目

堀金ほりかね村の北にあり、北は大塚おおつか(現川越市)、東は大袋おおふくろ(現同上)。南部を新河岸道が通り、中央を南西から北東へ久保くぼ川が流れる。小田原衆所領役帳には小机衆二宮播磨の所領として入東につとうの「青柳」一七貫文がみえる。田園簿では高一〇九石で皆畑、旗本朝比奈領。寛文一二年(一六七二)の検地帳(奥富家文書)によると反別一三五町余(田七反余・畑一三四町余)、名請人約六〇名。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]吉田町神戸かんど

上吉田村の北に位置し、湯日ゆい川中流域に立地する。東は与五郎よごろう新田、西は前玉さいたま(現榛原町)、北は南原みなみはら(現島田市)。天正五年(一五七七)二月九日の武田勝頼判物写(土佐国蠧簡集残篇)に「青柳三ケ郷」一千一七三貫七〇〇文とあり、武田勝頼は今川家旧臣の小山こやま城の城将岡部丹波守(長教)に当郷と当郷の陣夫一三人を宛行うことを約している。同一七年三月六日の石雲院領検地帳写(石雲院文書)によれば、大柳として六反余、大柳長春院抱分として二反余が書上げられているが、この大柳は青柳の当て字と考えられる。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]水戸市青柳町

水戸城下の北に位置し、那珂川の左岸流域の平坦地の村。西は中河内なかがち村・西連寺さいれんじ村。村の北境を小場江おばえ用水が長さ九〇間にわたり東流する。

中世には弘安大田文に「青柳十丁」とみえ、常陸大掾系図には馬場大掾資幹の次男青柳次郎泰幹の名がみえる。興国元年(一三四〇)頃、大掾一族と佐竹勢の青柳の地での交戦を記した記録(大掾裔石川氏文書)に「さたけ勢よせきたり候時、あをやきのしやうにて、みのしまのなかつかさの子息十郎太郎さいせんにうちしに候、他にことなる事にて候、向後このむねを心へさせ給へく候也、謹言、六月十五日 浄永 大せう殿」とある。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]大垣市青柳町あおやなぎちよう

杭瀬くいせ川左岸、大垣輪中の西部に位置し、北は若森わかもり村。中世の青柳庄の遺称地とされる。「あおやなぎ」ともいう。「美濃明細記」によれば、和田義盛の弟義実の子和田奥田丸が居城とした青柳城があったといわれ、近世には市橋長勝は同城より今尾いまお(現海津郡平田町)に移ったとされる。なお、天正一二年(一五八四)四月一四日羽柴秀吉は竹鼻たけがはな(現羽島市)への敵の侵入に対し、当地より軍勢を呼戻そうとしている(「羽柴秀吉書状写」一柳文書)

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]久喜市北青柳きたあおやぎ

北から東は新川につかわ用水を境に下早見しもはやみ村と対し、東から南は古新ふるにつ川を境に太田袋おおたぶくろ村、備前堀びぜんぼり川を境に野牛やぎゆう(現白岡町)騎西きさい領に所属。正保四年(一六四七)川越藩松平氏の検地をうけ(風土記稿)、田園簿によると田高一四一石余・畑高一五八石余、同藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高五五三石余、反別は田方三五町七反余・畑方三八町二反余、ほかに新開高二二一石余、田方一四町二反余・畑方一五町三反余があった。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]伊南村青柳

小塩こしお村の北に位置し、伊南川左岸の段丘上に集落がある。集落の南を青柳川が東流し伊南川に合する。その南方に城山しろやまと称する久川ひさかわ城跡がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「青柳 百五十石四斗一升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で、免五ツ一分。寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)によると高一七二石余、免六ツ五分で取米一一一石八斗、うち三七石二斗六升七合が米納で残りは金納。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]君津市青柳

寺沢てらさわ村の東対岸、小櫃おびつ川中流右岸に位置する。村の東を久留里くるり道が通り南東の市場いちば村に通じる。近世中期以降舟運が盛んになり、新河岸が設けられた(吉田家文書)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三一七石。元禄郷帳では高三五三石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高三九五石余。寛文四年(一六六四)には久留里藩領で(寛文朱印留)、以降の領主の変遷は山本やまもと村と同じ。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数三〇。安政五年(一八五八)・同六年に百姓が川舟を一艘、万延元年(一八六〇)には安行船を一艘もち運送を行っていた(粕谷家文書)

青柳村
あおやなぎむら

[現在地名]清里村青柳

東を櫛池くしいけ川が北流し、川を挟んで赤池あかいけ村と対する。北西にきようヶ岳・ぼうヶ池がある。正保国絵図に村名がみえる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高二一六石二斗余。天和三年郷帳によれば高一九一石余、うち山高四斗一升。宝暦一〇年(一七六〇)以降に郷蔵が建設され、当村と玄藤寺げんどうじ新田(現板倉町)が維持した(清里村史)。享保七年(一七二二)からの質地騒動の際には当村の甚五右衛門が惣代の一人に選ばれており、今泉いまいずみ(現上越市)矢代やしろ川原で磔になった(同書)。鎮守の白山社は明治四一年(一九〇八)諏訪社・山守社・青柳社・弁才天社を合祀することとなったが、社殿や祠は遷されなかった。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]山形市青柳あおやなぎ・あけぼの・新開流通センターしんかいりゆうつうせんたー

風間かざま村の西に位置し、高瀬たかせ川下流沿岸の低平地に立地。最上義光の家臣長谷長九衛門の屋敷跡がある。最上氏改易後は山形藩領、延享元年(一七四四)幕府領、明和四年(一七六七)高畠藩領、同七年幕府領米沢藩預地、寛政一二年(一八〇〇)高畠藩(のち天童藩)領となる。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高一千三八三石余。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]岩瀬町青柳

岩瀬盆地の南に位置し、東は水戸みと村、南は犬田いぬだ村。村の南部は御嶽おんたけ山の北側の山地で、北部に桜川が流れる。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。青柳村差出帳(安達家文書)によれば、慶安三年(一六五〇)の検地で村高二二六・七七九石となり、万治三年(一六六〇)と延宝五年(一六七七)の新開検地で合せて一〇石余を打出す。

「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には桜川から取入れる堰があり、岩瀬・青柳・ほん新田・西にし新田の四ヵ村五〇町歩の水田の用水となっている。溜池三、四壁山三もあるが、薪は山口やまぐち村に入り、山札三枚をもっていた。

青柳村
あおやなぎむら

[現在地名]池田町青柳

田畑たばた村の北にあり、東は池田野いけだの新田。応安三年(一三七〇)一二月二二日の足利将軍家御教書写(金沢市立図書館蔵松雲公採集遺編類纂)に「濃州安国寺領同国池田之郷青柳郷以下事」とみえ、足利直義・足利義詮の安堵に任せて足利義満が重ねて安堵している。安国あんこく寺は小寺こでらにある臨済宗妙心寺派寺院。天正一七年(一五八九)一一月二一日付豊臣秀吉の美濃国御蔵入目録(内閣文庫蔵)に青柳一六一石余とみえる。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]加茂町青柳

東は知和ちわ村、西は東黒木ひがしくろぎ村に接する。枝郷に室尾むろお分がある。正保郷帳に高二一六石余、うち田方一九一石・畑方二五石余とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高七六石余・開高六〇石余。「作州記」では本村二六五石余・室尾分八九石余。文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では本村二六五石余・室尾分九五石余。「東作誌」では本村は同高で、本田畑高二一九石余・新田畑高四五石余、室尾分は同高で本田畑高七二石余・新田畑高一五石余・新開田畑五石余、戸口は本村分三七軒・一七一人、室尾分一五軒・五七人。

青柳村
あおやなぎむら

[現在地名]取手市青柳など

北相馬台地東の平坦地に位置する純農村。西北は井野いの村。「寛政重修諸家譜」によれば井野村に住した本多重次は慶長元年(一五九六)に没し、「其地青柳村の本願寺に葬る」とあるので、近世初期には重次の知行地であった。安永二年(一七七三)一〇月の青柳村御検地以来御地頭付書上帳写(海老原清文書)によると寛永一一年(一六三四)から天領、同一九年から下総佐倉藩領、慶安四年(一六五一)から佐倉藩主堀田正盛の三男正俊(のち古河藩主)領、万治三年(一六六〇)天領、寛文元年(一六六一)から佐倉藩領、元禄一一年(一六九八)から天領、正徳元年(一七一一)から旗本本多重益(重次の子孫)知行地。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]鉾田町青柳

ともえ川右岸にあり、東は巴川を隔てて鳥栖とりのす村。正安三年(一三〇一)四月二二日の前大禰宜中臣朝親譲状(塙不二丸氏所蔵文書)に「府郡内 橘郷四至 東限柳橋若舎人堺、南限入海、西限小河堺、北限東大道青柳堺」と記され、鹿島神宮の神領にあたるたちばな郷の北にあった。室町中期に武田氏の支配下に置かれ、天正年間(一五七三―九二)には一族の武田大膳勝信が当地に進出して、青柳氏と称した。青柳氏は同一九年、本宗武田氏滅亡に際して帰農したが、現在その居館はわらび館と称され、巴川を眺望する丘陵上に遺構をとどめている。

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]前橋市青柳町・南橘町なんきつまち

西は荒牧あらまき村、南は北代田きたしろた村・下小出しもこいで村、東は龍蔵寺りゆうぞうじ村。青柳御厨の遺称地。寛文郷帳に田方三五四石二斗余・畑方二〇七石二斗余とある。慶応四年(一八六八)五月、幕府外国奉行支配組頭の高畠弾正は、上武両国の「村々所々騒立」を鎮撫するため、同月一一日青柳村へ巡回したが、「悪徒共弥増長」したため、鎮圧するすべもなく一五日まで当村に滞在した(「高畠弾正陳弁書」大河内輝声家記)

青柳村
あおやぎむら

[現在地名]古賀市青柳・いとうら

青柳川の両岸に位置し、北西は鹿部ししぶ村、北東は青柳町。小早川時代の指出前之帳では青柳村の田九七町八反余(分米一千二一四石余)・畠六〇町五反(分大豆三〇〇石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二千四六石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二千一五石余、家数一六九・寺一・社一、人数九一六(田圃志)

青柳村
あおやなぎむら

[現在地名]魚津市青柳

片貝かたかい川右岸にあり、対岸は六郎丸ろくろうまる村、北は天神野新てんじんのしん村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高七二石・免四ツ四歩、小物成は鱒役一匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。享保一七年(一七三二)など三度の手上高があり、天保一一年(一八四〇)の打銀高八三石余(「高免帳」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報