銅板を原版とする版画を指すが,版のつくり方は凹版が普通である。凸版は例外的で,15世紀後半に金工家が作ったクリブレ版gravure au criblé(フランス語。英語ではdotted print)と1720年代のカーコールElisha Kirkall(1692-1750),1788-1820年ごろのW.ブレーク,および押印風に用いられた宗教図像などに限られる。
凹版は金属板面に図を刻み,そこにインキをつめる。したがって図を刻みこむこと自体は金工品の歴史とともに古いし,刻線を見やすくするために白色や黒色(ニエロ)の粉末をそこに充塡することは古代ギリシア,エトルリア以来,西洋中世を通じて行われてきた。それが版画となるためには,刻線に流れ出ない程度の固さのインキをつめ,台材となる紙などに写し取らせればよい。溝の中のインキを紙に付着させるのは,凸版のように簡単でなく,ブドウ搾り機に似た加圧機を要した。それが最初に行われたのは1430年代の,おそらくライン川上流域の金工家の工房であったが,やがてヨーロッパ全土に普及し,精緻な再現性によって16世紀以来西欧版画の主流となった。
製版法は大別して2種類あり,その第1は直接に道具で版面を加工する方法,第2は硝酸などで腐食させて刻線を得る方法である。前者のうちビュランburin(フランス語)という一種ののみによる彫刻銅版画(エングレービングengraving)が最も古く,また19世紀まで最も尊重されてきた。
初期には署名のないものが普通だが,おもな版画家としてライン川上流では〈トランプ・カードの画家〉,〈E.S.の画家〉,M.ションガウアー,〈L.Cz.の画家〉など,下流では〈愛の園の画家〉,〈F.V.B.の画家〉,メッケネム,L.ファン・レイデン,イタリアではA.ポライウオロ,A.マンテーニャらが挙げられ,次いでドイツのデューラーの版画がヨーロッパで広く知られた。彼の周辺の同時代人,弟子たちの〈小ものの画家(Kleinmeister)〉たちは,創作もするが他人の版画の複製も多い。ラファエロの絵画・素描の複製を専門とし,19世紀まで古典主義の手本として永く大きな影響を及ぼしたのはイタリアのM.ライモンディであった。彼とラファエロを仲介したバビエラBavieraは版元の先駆と考えられるが,1527年の〈ローマ劫掠〉後はサラマンカAntonio Salamanca(1500ころ-62),次いで,フランス人ラフレリAntoine Lafréry(1512-77)がそれを継ぐ。
北方ではH.コックの店〈四方の風Aux Quatre Vents〉が1548年からアントワープにこのような版元制度を導入した。彼はイタリアの画家の素描を版画化してイタリア・ルネサンスとマニエリスムを普及させ,またH.ボスの素描を複製して,P.ブリューゲルを中心とするフランドル風刺精神の復活にも貢献した。これにならって多くの版画家が素描・絵画および版画の複製化に努めた。彼らはいずれも自ら多作の版画家でもあり,16世紀後半のアントワープは最大の版画製作地となった。またプラハのルドルフ2世の宮廷や,ミュンヘン,ベネチアで活躍したサドレルSadler家の版画家をはじめとして,その他にもフランクフルト,ローマ,パリなど国外の各地で仕事をする版画家が現れ,彼らの熟練した版画技術のみならず,後期マニエリスムの国際化に一役買った。またコルネリス・コルトがローマでアゴスティノ・カラッチを通じてアカデミズム版画の形成に寄与したように,いずれもそれぞれの土地の17世紀の版画のみならず,絵画の形成にも参画している。H.コック未亡人から原版を買い受けるなどして二十数台の印刷機を擁するヨーロッパ最大の出版業を営んだのはC.プランタンであり,彼は当時最盛期にあったスペイン植民地における教会用印刷物供給の独占権をフェリペ2世から得た。日本のイエズス会系洋風画(16世紀)の原型の大部分がアントワープ製版画に基づくのも,上記のことと無関係ではない。このような版画の普及はコルトの例のように,その表現力,再現力の拡充に基づいている。しかし,ハールレムのH.ホルツィウスはコルト流の線のうねりや肥瘠をさらに大きくし,線と線の間隔も広げる。その結果,刻線は再現のためというよりビュランのアクロバティックな曲線そのものの動きや交錯のおもしろさを表現する場合があり,弟子のマタムJacob Matham(1571-1631),ミュレルJan Müller(1570ころ-1625ころ),P.J.サーンレダムらに引き継がれた。またルーベンスは優れた版画家群に自作を複製させ,彫刻銅版画の古典的技法形成に一役買った。
フランスでは16世紀に地方で黙示録に独自の幻想を深めたJ.デュベや17世紀では肖像版画にR.ナントゥイユのように優れた創作版画家もいたが,17,18世紀は複製版画が一般的になり,それにはより製作が容易な腐食法による版に,仕上げをビュランでするという複合技法が用いられた。したがって,18世紀までの版画の大部分はこの技法による表現となっている。彫刻銅版画の熟達には他の技法以上に修練を要するし,でき上がりも古典主義的な完結感があるので,19世紀後半には時代の好みと合わなくなったが,20世紀には少数ながら復活した。
彫刻法についで重要な技法は腐食法,いわゆるエッチングetching(フランス語ではオーフォルトeau-forte)である。製版法は硝酸に対する防食剤ground(フランス語ではvernis)を塗付した銅板上に針でひっかいて描く。エングレービングに比べるとはるかにデッサンに近い運筆の自由さと即興性が保たれ,修正も可能である。刻線自体にはビュラン彫のような滑らかさはないが,独自の趣がある。したがってこの版画は専門的版画家だけでなく,画家たちによっても発展するが,発生はやはり金工家の工房においてであった。金属を一種のワックスで防食し酸による腐食で装飾することは14世紀以来行われてきたが,それは必ずしも銅ではなかった。1500年ころアウクスブルクのホッファーDaniel Hopfer(1470ころ-1536)の金工工房でエッチングが初めて試みられたときも腐食したのは鉄板であり,デューラー,アルトドルファー,ヒルシュフォーゲルAugustin Hirschvogel(1503ころ-53),ブルクマイアなどのエッチングはいずれも鉄版でなされた。
1520年代にネーデルラントのL.ファン・レイデンが銅版のエッチングをはじめ,16世紀中期から全ヨーロッパに行われる。たとえばイタリアでは1520年代のマニエリスト,パルミジャニーノ,1580年代のF.バロッチ,17世紀にはカラバッジョ,G.レーニ,グエルチーノ,G.B.カスティリオーネなども制作する。18世紀にはカナレット,ティエポロ父子などの画家たち,建築家で大版画家のピラネージがいる。フランスでは1540年代のフォンテンブロー派の版画家群とJ.deベランジュそしてイタリアで学んだJ.カロ,それに学ぶA.ボスらはエショップéchoppe(フランス語)という線の太さが自在に変化できる道具でエングレービングと見まがうような表現をエッチングで行った。18世紀にはJ.A.ワトー,F.ブーシェ,J.H.フラゴナールらの画家のほかに,サントーバン家,コシャンCochin家,モローMoreau家その他の多数の優れた職業的版画家群がフランス絵画を版画化し,広く国外に印象づけた。フランドルではA.ファン・デイクの《肖像画集》,イギリスではボヘミア出身のホラーWenzel Hollar(1607-77)が多様な作品をつくり,18世紀にはW.ホガースが版画を教訓に用いる。風刺を引き継ぐのはT.ローランドソン,さらにJ.ギルレー,G.クルックシャンクらがイギリス戯画の伝統を固めていく。オランダではファン・ヘームスケルク,フェルメイエンJan Cornelisz.Vermeyen(1500ころ-59),たった1点だがP.ブリューゲル,ド・ゲイン2世Jacob Ⅱ de Gheyn(1565-1629),ガウトHendrick Goudt(1585-1630),あらゆる技法の粋を凝らし色刷りも行ったH.セーヘルスらを先行者としてエッチングの巨匠レンブラントの時代を迎える。風俗版画にA.ファン・オスターデ,風景にロイスダールJacob van Ruisdael(1628か29-82),イタリア風の風景にブレーンベルフBartholomäus Breenbergh(1599-1659以前),ボトJan Both(1610-52),ベルヘムNicolaes Berchem(1620-83),デュジャルダンKarel Dujardin(1622-78),スバネフェルトHerman van Swanevelt(1600ころ-55ころ),海景にド・フリーヘルSimon Jacobsz.de Vlieger(1600ころ-53),ゼーマンReynier Zeeman(1623ころ-67ころ)ら極盛期の観を呈する。スペインでは黄金時代の画家たちも余技程度にしか制作しないが,18世紀末にゴヤがアクアティントを併用しながら4種の大連作をつくり,19,20世紀に強い影響を与えた。各種の本の挿絵としても銅版画が用いられ,それらがエングレービングの体裁をとる場合にもしばしばエッチングによって版のおおよそをつくることが多かった。
19世紀の中期から再び画家の創作エッチングが復活する。フランスのF.ブラックモン,メリヨン,コロー,ミレー,マネ,ドービニー,ブレズダン,ピサロ,ドガ,アメリカ生れのホイッスラー,M.カサット,オランダ人ヨンキント,スウェーデン人ソルンAnders Zorn(1860-1920)ら枚挙にいとまがないが,画家たちがリトグラフと同じく気軽に版画制作をする時代を迎えるのである。
(1)ビュランの代りに版面に直接に鉄針で描くドライ・ポイントdry point(フランス語ではポアント・セッシュpointe sèche)は,エッチングと同じ即興的な自由があるが,修正は困難で熟練を要する。刻線の縁にできる金属のめくれ(バーburr)にたまったインキが刻線に独特のにじみの効果をつくる。めくれは脆いので大量印刷に向かないが,このめくれを削り取った刻線はビュラン彫の線と区別しにくい。1480年ころの〈ハウスブーフの画家Hausbuchmeister〉(1467-1507活躍)がこの技法だけで製版したが,それ以後はおもにエッチングのあとに版面効果の調整用の補筆として用いられた。例外的にレンブラントとその弟子たちがこの技法を好んだ。19世紀の後半にはレンブラントを研究したヘイドンSeymour Haden(1818-1910)をはじめとして,この即興的で妙技の冴える技法が世紀末のフランス社交界の肖像画家P.C.エルー,あるいはアメリカ人M.カサットらに好まれた。またドイツ表現派は木版と同じくドライ・ポイントのなまなましい情感の直接的な表出性にひかれた。
(2)点描法によるスティップル・メソッドstipple methodでは点は1列に並べば線となり,広く散らされると面にもなる。エングレービングによるものとエッチングによるものとがある。16世紀初頭のベネチア派のカンパニョーラGiulio Campagnola(1482ころ-1518ころ)は輪郭線以外のすべてをビュランの刻点の濃淡によって描き表したが,デューラーその他の銅版画家の多くは,部分的に点描を用いて微妙な陰影を表した。エッチングにおいて点描を多用したのはJ.deベランジュである。また両方の長所をとって,ビュランで防食被膜を点刻して腐食させる技法も行われ,F.バルトロッツィ,チプリアーニGiovanni Battista Cipriani(1727-85)がこの技法で知られた。
(3)クレヨン法crayon mannerは防食被膜にモレットやルーレットという多数の小突起がついた道具で版をつくり,チョークやパステルによる絵の粉っぽい効果を版画で再現するために,1757年フランソアJean-Charles François(1717-69)によって考案された。ドマルトーGilles Demarteau(1729-76),ボネLouis-Marin Bonnet(1743-93)がその名手で,後者は数枚の版による精巧な多色刷をつくった。
(4)鉛筆やチョークに似た効果はソフト・グランド・エッチングsoft-ground etching(フランス語ではベルニ・ムーverni mou)によっても得られる。この技法は柔らかい防食膜上に紙をのせ,上から鉛筆で描くと,鉛筆の圧力のかかった部分の被膜が紙とともにとれて,その部分が腐食される。G.B.カスティリオーネが1640年代に用いたが,以後18世紀まで忘れられていた。おそらくクレヨン法と同じくフランソアが実用化し18世紀にしばしば使われた。
(5)メゾティントmezzotint(フランス語ではマニエール・ノアールmanière noire)はロッカーrocker(フランス語ではベルソーberceau)という道具で版面に縦横斜めに刻線を交錯させ細かく傷つける。インキをつめるとビロードのような黒一色に刷れるところを,明部をバーニッシャーburnisherあるいはスクレーパーscraperなどで凹凸を削ったり磨いたりしてインキのつき方を加減する。インキの拭き取り方などに熟練を要するとはいえ,これはほとんど現代の写真版と変わらない効果をつくる。ドイツのフォン・ジーゲンLudwig von Siegen(1609-80ころ)が1642年以前にこの技法を発見し,ルプレヒトRuprecht公(1619-82)が改良を加えた。この技法はドゥサルトCornelis Dusart(1660-1704)以下オランダで絵画の複製法として好まれ,さらに18世紀のイギリスでも複製版画としてスミスJohn Raphael Smith(1752-1813),マッカーデルJames MacAdell(1728-65),ワトソンThomas Watson(1748-81)らを輩出させ,〈イギリス式版画manière anglaise〉と呼ばれるほどであった。J.マーティンやターナー,コンスタブルらの絵画も複製されるが,19世紀後半には流行が衰えた。それを現代に復活させたのは長谷川潔であり,M.アバティ,浜口陽三たちがこれを継ぐ。
(6)アクアティントaquatintはメゾティントのように面的な加工・表現を可能とする。松脂(まつやに)の粉末を銅板に振りかけ,熱で固定して防食剤とするもので,水彩のような効果を生むことがある。一般にフランスのル・プランスJean-Baptiste Le Prince(1734-81)が1768年以前に発見し彼以後定着した技法とされるが,16世紀のD.ホッファーやM.ライモンディ,17世紀のレンブラントやファン・デ・フェルデJan van de Velde(1593-1641)らが個別的に用いてはいた。アクアティントによる水彩風の色刷りは,エッチングと併用されて版画の調子を整えるのに便利である。色刷り版画は18世紀前半にドイツ人ル・ブロンJakob Christof Le Blon(1667-1741)がメゾティント版でニュートンの三原色原理を応用して色刷りの絵画複製に成功し,フランスのゴーティエ・ダゴティJacques-Fabien Gautier-Dagoty(1710-81)がさらに墨版を加えて精度を高めた。アクアティント版でも,ドビュクールPhilibert-Louis Debucourt(1755-1832)やその他の版画家が色刷りを実用化したが,1830年ころから絶えていたのを19世紀末にM.カサットが復活させた。単色で用いて優れた効果を生み出したのはゴヤであった。
(7)シュガー・アクアティントsugar aquatint(lift ground process)は銅板に砂糖液で直接描き,乾いたところにアスファルトの防食膜をかけ,水につけて溶けた砂糖分の版面が露出し,そこが腐食される。アクアティントと逆の凹凸になるが,より柔軟な効果をもつ。H.セーヘルスが17世紀に実施していたが,以後19世紀まで忘れられていた。しかし20世紀になって多くの画家に再び用いられるようになった。
現代では,各作家が版画のあらゆる表現の可能性を探求し,従来の技法の再興とその複合化もしばしばみられる。
日本には16世紀末にイエズス会によって彫刻銅版画(エングレービング)が導入されたが,17世紀初めにキリシタン弾圧によって断絶した。18世紀後半に司馬江漢がエッチングを再興し,亜欧堂田善,安田雷洲ら注目すべき作家を生んだ。開国後イタリアから招聘したキヨソーネが再びエングレービングを教え,腐食法とともに実用的な挿図,地図などに用いられた。芸術的銅版画の復活は20世紀に入ってからのことであった。
執筆者:坂本 満
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
銅板を版材とする版画の総称。一般的には、鉄板・亜鉛板を同様の方法で用いたものも含む。銅版画の印刷は凹版法によるが、製版の方法は直接法(乾式)と間接法(湿式=腐蝕(ふしょく)法)に大別でき、いずれも種々の手法があり、また、しばしば混用される。銅版画は木版画に次いで古い版画の方法であり、14世紀から15世紀の変わり目ごろ、北ヨーロッパとイタリアで相次いでおこった。木版画が大工の技術のなかから発達し、表現も技巧も民衆芸術的な趣(おもむき)をもつのに対し、銅版画は金工師の技術に由来し、最初から工芸的な質の高さがあって、貴族などに好まれた(銅版画の歴史については、「版画」の項を参照されたい)。
[八重樫春樹]
ビュランその他の道具で直接原板に彫刻し製版する方法。
[八重樫春樹]
銅版画の技法としてはもっとも古いもので、ビュランburin(フランス語)、engraver(英語)という菱(ひし)形の断面をもつ鑿(のみ)で銅板に線刻する。線の両側にできる銅のまくれは、スクレーパーscraperで除去する。得られる線は概して鋭く硬い。この線に、印刷用インキをタンポンやローラーで詰め込み、その後、版面のインキをぼろ布や手のひらで拭(ふ)き取る。湿らせた紙を版面にのせて薄いフェルトで覆い、銅版プレスにかけて刷り出す。紙はフェルトの弾力を介して線に押し込まれ、そこに残されたインキを付着させる。この印刷の方法は、銅版画(凹版法の版画)に共通のものである。
銅版画技法中もっとも古いこの方法は、北ヨーロッパでは姓名の頭文字によってE(エー)・S(エス)の版画家とよばれる銅版画家やションガウアーによって芸術的に発達し、ドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーによって、絵画にも匹敵する芸術表現の方法に高められた。イタリアでは15世紀にフィレンツェを中心に急速な発達をみせ、マンテーニャやM・ライモンディの高い芸術に引き継がれた。
[八重樫春樹]
エッチング針で銅板上に描画する方法で、エングレービングに比べて細く柔らかい線が得られる。この過程でできる金属のまくれは、ドライポイント技法の積極的効果として残される。つまり、まくれに保持されて拭き残されたインキが、印刷時に微妙なにじみをつくる。この効果を最初に用いたのは、15世紀後半ドイツの「アムステルダム版画素描館の版画家」(その作品の多くが同館にあるためこの名があり、またその有名な素描帳から「家事書の画家」ともよばれる)であるが、17世紀オランダのレンブラントはとりわけこの効果を好み、しばしばエッチング技法(後述)と併用して豊かな表現を生み出した。
[八重樫春樹]
自由な中間トーンを生み出すことができることからこの名があり、また、深く豊かな暗部に特色があるため、フランスではマニエール・ノワールmanière noire(黒の方法)ともよばれる。銅板の全面をロッカーrocker(ベルソー)という道具で細かなやすり状に目立て、これをスクレーパーで削り取ったりバニッシャーburnisherでつぶしたりすることによって、黒から白までの諧調(かいちょう)を無段階に得ることができる。つまり、目立てを完全に削り取った部分は白く、また手つかずの部分は真っ黒に刷られ、中間トーンは目の削り方・つぶし方のぐあいで自由に調整することができる。一般には、エッチングで輪郭線を彫ったのちにこの処理をする。
この技法は17世紀中葉にオランダ在住のドイツ士官ルートウィヒ・フォン・ジーゲンによって発明され、彼から直伝を受けたプリンス・ルーパートがイギリスにもたらし、ここで急速に発達した。そして従前のエングレービングにかわって絵画複製の有力な方法となったが、写真術の普及とともにその役割を終える運命を担っていたといえる。19世紀前半には、ターナーがこの技法による「研鑽(けんさん)の書」の連作を刊行して人気を博している。メゾチントは20世紀になって創作版画の技法として再認識され、とりわけ日本の長谷川潔(はせがわきよし)や浜口陽三(ようぞう)の作品にその成功例をみることができる。
[八重樫春樹]
この方法は間接法でも行われる。直接法は、ビュランの先で板面をつつくようにして無数の刻点をつくり、その集積密度によって明暗のグラデーションを生み出す。湿式の場合は、版面に施したアスファルトの防蝕層(グラウンド)の上から同様に点刻し、さらに酸の液に浸(つ)けて腐蝕させる。この技法を最初に用いたのは、16世紀初め、イタリアのジュリオ・カンパニョーラであった(直接法)。18世紀後半にロンドンで活躍したイタリア人版画家バルトロッツィは、この方法でパステル調の優美な版画をつくって人気があった。
[八重樫春樹]
版面に防蝕層(グラウンド)を施し、露出した部分を腐蝕液で腐蝕させて製版する方法。湿式、腐蝕法ともいう。
[八重樫春樹]
エッチング針で描画する点ではドライポイントと同じであるが、直接銅板に彫刻するのでなく、グラウンドを削り取るだけでよい。このため、素描に近い自由な軌跡の線が得られる。腐蝕を途中で停止し、必要な部分(弱い線が欲しい部分)を耐蝕性のワニスで覆い、ふたたび腐蝕を続けることによって、線の濃淡、強弱を調整することができる。酸は、もとの線に忠実な腐蝕が必要な場合には塩化第二鉄、粗い腐蝕には硝酸の溶液が用いられる。
デューラーはこの方法を最初に用いた版画家の一人であったが、彼が使用したのは銅板でなく鉄板であった。鉄の表面を腐蝕させて装飾を施す方法は、中世から鎧(よろい)や武具などの金属工芸では発達していたが、デューラーのころには、銅の腐蝕にあった酸がまだみいだされていなかったのである。銅板のエッチングは16世紀なかばごろからイタリアを中心に発達したが、この表現効果を十分に発揮させて版画芸術の代表的手法としたのは、レンブラントであった。
[八重樫春樹]
エッチングの硬質グラウンドのかわりに、粘り気のある軟らかいグラウンドを用い、これに紙を重ねて、その上から鉛筆やチョークで素描する。紙をはがしたとき、素描された分だけ軟らかいグラウンドが紙に付着し、銅の面が露出する。これを腐蝕した線は素描する材料に応じて太く、また紙の地肌の凹凸も軟らかいグラウンドの除去に影響するので、あたかも紙にチョークなどで素描した感じを出すことができる。このため、この方法も素描の複製技術として用いられることが多かった。創作版画に用いられた早い例としては、18世紀後半イギリスのゲーンズバラやターナーの作品があるが、19世紀末ドイツやドイツ表現主義の画家たちは、この技法のもたらす粗さや即興性を好んだ。20世紀になると、軟らかいグラウンドの上に木の葉、粗目の板、布などを押し付けてさまざまな質感をもった版画が、フランスのアンドレ・マッソンらによってつくられている。
[八重樫春樹]
砂糖、アラビアゴム、アクアチント粒子などの水溶液で銅板上に描画し、その上から版面全体をグラウンドで覆う。これを酸に浸けると、素描に用いた水溶液の成分がグラウンドを下から持ち上げ(リフト)、そこにできた穴あるいは亀裂(きれつ)を腐蝕する。この方法はゲーンズバラの考案とされるが、彼は砂糖水を用いたためシュガー・アクアチントとよばれた。この技法を用いた作品としては、ピカソがアクアチント粒子を混ぜたアルコール液のリフト・グラウンドで制作した『ビュフォンによる「博物誌」』の連作が有名である。
[八重樫春樹]
銅板の全面に松脂(まつやに)の粉末(アクアチント粒子)をいっぱいにまいて熱し、版面に固着させる。そして、作品において白くしたい部分をワニスで覆って、酸に浸ける。一定時間後、薄い中間トーンの欲しい部分をニスで止め、ふたたび酸に浸ける。この処理を繰り返すことによって、いくつかの段階の面的な明暗諧調を得ることができるのである。この方法は、18世紀中ごろフランスのジャン・バティスト・ル・プランスによって発明された。この技法を用いてもっとも芸術的効果をあげた最初の版画家はスペインのゴヤである(『ロス・カプリーチョス』など)。アクアチントは単独に用いられることはなく、一般にエッチングの線刻と併用される。アクアチントの方法で全面を腐蝕したのち、スクレーパーで削って明暗の調整をする技法は、アクアチント・メゾチントとよばれる。
[八重樫春樹]
これは、18世紀にとくに好まれたクレヨン(チョーク、パステル)の素描の効果を版画に得るために考案された方法である。エッチング針を2、3本まとめたもの、マットワールとよばれる多数の突起のあるハンマー、歯型のある小さなルーレットなどを用いて、銅板に施したグラウンドの上から小さな点の集積で描画し、酸で腐蝕する。湿式のスティップル・エングレービングに似ているが、クレヨン法は地肌の粗い紙にクレヨンで素描した線の効果を求めるものであり、1750年ごろフランスのジャンとシャルル・フランソアによって考案された。
銅版画の日本渡来は、キリスト教伝来後まもなくと考えられるが、桃山時代の16世紀末ごろには、キリスト教の布教活動に伴い聖像銅版画の印刷が開始されたようである。また、日本の画家による銅版画の制作は、天明(てんめい)年間(1781~1789)に司馬江漢によって端緒が開かれ(エッチング)、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)、安田雷州(らいしゅう)らがこれを受け継いだ。
銅は比較的軟らかい金属なので、彫版しやすい利点のある反面、プレスの圧力で版面が損なわれやすく、とくにドライポイントやメゾチントでは印刷できる枚数は非常に限られている。銅版画のこの欠点を補うため、現代ではスチールめっきを施して版面を硬化することが多い。また印刷インキは、古来さまざまな調合が行われてきたが、近代の標準的なインキ(黒)は、ランプの煤(すす)や象牙(ぞうげ)を焼いた粉(アイボリー・ブラック)を、焼き油(あまに油を焼いた油)で練り合わせてつくる。
[八重樫春樹]
『駒井哲郎著『銅版画のマチエール』(1976・美術出版社)』▽『深沢幸雄著『銅版画のテクニック』(1976・ダヴィッド社)』▽『菅野陽著『日本銅版画の研究(近世)』(1974・美術出版社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
銅版による版画。普通は凹版。版面を直接刻む方法と,硝酸などの腐食液を用いて製版する技法がある。日本には桃山時代にイエズス会によって西洋の銅版画がもちこまれていたが,技術が確立するのは18世紀後半である。司馬江漢(しばこうかん)は,西洋の書物による知識をもとに銅版画の技術を修得。1783年(天明3)日本ではじめての腐食銅版画(エッチング)を作った。江漢の銅版画は,眼鏡絵(めがねえ)用の江戸風景を中心としたもので,美しい手彩色(てさいしき)が施されている。その後,亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)や安田雷洲(らいしゅう)らが登場した。江戸時代の銅版画の多くは,その細密な描写をいかして挿図や地図など,実用的な用途に供されることが多かった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…しかし17~18世紀にはエッチングでほぼ全体を描き,顔面部など主要部分をビュラン彫りで仕上げる複合技法が盛んになり,おもに専門版画家の,したがって複製版画的な作品制作が大部分を占めることになった。(3)エッチングetching 金属,主として銅板に線や面を腐食して版をつくる手法で,腐食銅版画といわれる。やはり16世紀初頭から行われたが,当初から専門版画家でない画家たちの比較的自由な作品を生み出している。…
…染物業のかたわら僧月僊に絵を学び,白河城主松平定信に見いだされ谷文晁に師事した。のち定信から銅版画(エッチング)の研究を命ぜられ,はじめ司馬江漢についたが,やがて定信周辺の蘭学者の協力を得て,江漢とは別途に銅版画や油絵の技法を習得した。彼は輸入西洋銅版画を写して画技をみがき,その模刻を行い,宇田川玄真著《医範提綱》(1808)の銅版挿絵,銅版《新訂万国全図》(1810)のような実用面の仕事もした。…
…美術用語としては,銅板など金属表面を酸で腐食して凹版をつくる技法,および,これを利用して刷った版画をさす(〈銅版画〉の項参照)。広くは,表面を化学的または電気化学的に溶解する加工法をいう。…
…その後間もなく浮世絵界を去り,南蘋(なんぴん)派の宋紫石から写生体花鳥画を学び,漢画家となったが,肉筆美人画も描いた。80年(安永9)ころに平賀源内と秋田蘭画の小田野直武の影響により洋風画に転向し,83年(天明3)日本最初の腐銅版画(エッチング)を作り,以後西洋銅版画の模刻と日本風景の銅版画を制作し,油絵も習得した。88年長崎に旅行し,18世紀末から19世紀初頭にかけて油絵の洋人図や日本風景図を多く描き,その一部を懸額として各地の社寺に奉納し,洋風画の普及に尽くした。…
…それはカリカチュアや風刺画として政治や宗教的な論争に,またちらしやポスターとして商業上の宣伝手段としても利用された。 16世紀から19世紀の写真の実用化までは,銅版画は絵画の複製としての役割が大きかった。18世紀になるとデッサンまで版画で精巧に複製された。…
…木版画は最も古い版画形式で,凸版である。ホオノキ,ナシ,イチジク,ブナなどの板目を版面とする板目木版woodcut(英語),gravure surbois de fil(フランス語),Holzschnitt(ドイツ語)が当初から広く用いられているが,18世紀末に考案されたツゲなどの木口(こぐち)を用いる木口木版wood engraving,gravure sur bois debout,Holzstichは銅版画に似た効果によって19世紀に実用的な挿絵に多く用いられた。印刷法は大別して3通りである。…
※「銅版画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新