朝山郷(読み)あさやまごう

日本歴史地名大系 「朝山郷」の解説

朝山郷
あさやまごう

鎌倉期からみえる郷名。戦国期には朝山村ともいう。現在の出雲市稗原ひえばら町・朝山町から平野ひらの町・姫原ひめばら町および簸川ひかわ大社たいしや入南にゆうなん菱根ひしねにかけての地域に比定される。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳に「朝山郷八十三丁五反小朝山左衛門尉跡」とみえる。朝山氏の名はすでに「源平盛衰記」に「朝山記次」とみえ、また文永八年の結番帳にいう朝山左(右か)衛門尉は建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造宮所注進状(千家家文書)の流鏑馬一五番の一番にみえる「在国司朝山右衛門尉勝部昌綱」と考えられ、中世朝山郷の成立は平安末期から鎌倉初期と推定される。朝山氏は古代出雲の氏族勝部の系譜を引く一族で、平安期から旧朝山郷に拠って有力在庁官人として当地域に勢力を張った。やがて斐伊川下流域の氾濫原の開発に乗出し、朝山郷の領域も旧塩冶えんや郷・古志こし郷にまで広がり、拠点も平野部に位置する現在の出雲市白枝しろえだ町付近に移したらしい。しかし塩冶郷古志郷への出雲国守護佐々木氏の入部に伴い、朝山郷は旧朝山郷(上朝山)と平野部(下朝山)の二つに分断されるかたちとなったようである。

朝山郷
あさやまごう

和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、アサヤマであろう。「出雲国風土記」によれば、神門郡八郷の一つで、郡家の南東五里余に郷長の家があり、地名は所造天下大神大穴持命が真玉着玉之邑日女命(神魂命の子)に毎朝通っていたことに由来するという。天平一一年(七三九)の出雲国大税賑給歴名帳(正倉院文書)に朝山郷内として加夜かや里・稗原ひえばら里がみえる。五戸の日置部、四戸の若倭部臣をはじめ神門臣・刑部などが書上げられ、鰥一人・寡三六人・貧窮者六人などの賑給対象となる総数は四四人で、合計穀二〇石八斗が支給されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報