木前庄(読み)きのさきのしよう

日本歴史地名大系 「木前庄」の解説

木前庄
きのさきのしよう

木崎城崎とも書く。古代の城崎郡城埼郷(和名抄)のうち小田井おだい(現小田井県神社)などを除く地域が庄園化したもので、皇室領の一である京都長講堂領。「玉葉」文治二年(一一八六)二月四日条に、「一、日吉社司申、但馬国木前庄馬足米、為国司妨事」とみえ、近江日吉社領でもあった。建久二年(一一九一)一〇月の長講堂領目録(島田文書)に「木前庄」とみえ、元三雑事(御簾三間・御座四枚・砂三両)、三月御八講砂二両、正月料の牛飼衣服(上絹二疋・綿二〇両・六丈布二反)、一〇月料の御更衣畳三枚(紫)、一一月中旬内五ヵ日の門兵士三人(四足門)の負担が記される(ほかに移花一〇枚は「不勤之」とする)。長講堂とは後白河法皇が元暦元年(一一八四)頃、院の御所六条ろくじよう殿内に設けた持仏堂が始まりで、百数十ヵ所の庄園が設定された。木前庄もその一として田畠からの年貢のほかに長講堂の年中行事に必要な雑事等を割当てられた。長講堂領庄園は、右の注文が作成された翌建久三年、後白河法皇の死に先立って皇女の宣陽門院覲子内親王に譲られ、ついで後深草天皇を経て持明院統が伝領し、皇室領庄園の一中心をなすことになる。

一方、建保二年(一二一四)二月一七日付の平親範置文(洞院部類記)には、親範は父祖が建立した平等寺・尊重寺・護法寺の三寺を合せた一堂を京都洛北出雲路いずもじ(現京都市上京区)に建立し、親範の私領三ヵ所を寄付したことを記すが、そのうちの一所は木前庄で、「依為寺務人、附明禅僧都」と記される。この一堂はのち毘沙門びしやもん堂とよばれ、木前庄は毘沙門堂領の一でもあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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