デジタル大辞泉
「鳥居峠」の意味・読み・例文・類語
とりい‐とうげ〔とりゐたうげ〕【鳥居峠】
群馬県吾妻郡と長野県上田市との境の峠。標高1362メートル。
長野県西部、木曽郡木祖村にある峠。標高1197メートル。太平洋側と日本海側の分水界をなす。中山道の奈良井宿が北に、藪原宿が南にあった。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
とりい‐とうげ とりゐたうげ【鳥居峠】
[一] 群馬県と長野県との境にある峠。四阿
(あずまや)山と角間山・湯ノ丸山との鞍部にあたり、利根川支流の
吾妻川と千曲川支流の神川の分水界をなす。標高一三六二メートル。
[二] 長野県、
木曾谷の北方にある峠。東側を信濃川水系の
奈良井川が北流し、西側を
木曾川の上流が南流する。御嶽神社遙拝の鳥居がある。標高一一九七メートル。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
鳥居峠
とりいとうげ
田代と長野県小県郡真田町長の境にある。上信国境の大分水嶺をなし、吾妻川は峠付近を源流とするので上流部を鳥居川とよぶこともあった。北は四阿山、南は角間山・湯ノ丸山で、その鞍部標高一三六二メートルに位置し、国道一四四号が通る。江戸時代は北方五〇〇メートルの標高一三九〇メートルの地点にあった。「名跡志」は日本武尊が「碓日嶺」に登り「吾嬬はや」と嘆いた地(「日本書紀」景行天皇四〇年条)をこの峠とする。鳥居峠の称は、四阿山頂の吾妻権現または信州の山家神社(現真田町)の奥宮参拝口に建てられた鳥居からよばれたと思われ、今も石鳥居がある。
鳥居峠
とりいとうげ
小県郡長村(現真田町)と上野国吾妻郡嬬恋村の境にあって、四阿山と角間山との鞍状部にある峠、標高一三六二メートル。上州道(現国道一四四号)が通っている。旧峠は標高一三九〇メートルで、現在の峠の北方五〇〇メートルの地点にあった(小県郡史・長村誌)。
鳥居峠は四阿山頂の山家神社奥宮への参拝口として、鳥居が立てられていた。峠名もこれによる。また峠から四阿山頂までの参道には石祠が一町ごとに立てられ、現在も二〇〇ぐらいは残っている。鳥居峠から少し離れて中社と称するお宮があった。ここに「花童子」とよばれる所があり、籠屋があったと伝える。
鳥居峠
とりいとうげ
木曾郡の北東鉢盛山と木曾山脈の主峰駒ヶ岳との間を連亘する山脈を、中山道によって横断する所が鳥居峠で、木曾路の北端楢川村と木祖村との境にある。標高一一九七メートルの峻嶺で、木曾川と犀川の上流である奈良井川の分水嶺をなしている。峠の東麓が楢川村奈良井で、西麓は木祖村藪原であり、頂上は木祖村に属し、中央線藪原駅から頂上まで三キロ、頂上から奈良井駅まで三・六キロある。
鳥居峠の開削年代について「三代実録」の元慶三年(八七九)の信美国境論争の記事の中に出てくる「県坂岑」の道を鳥居峠としている。
戦国時代木曾氏は、鳥居峠を木曾防衛の北方の第一線として、敵の侵入の際は木曾谷の懐深く引き入れておいて鳥居峠上で食い止め撃破する作戦をとっており、しばしば合戦場となっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鳥居峠 (とりいとうげ)
長野県西部,木曾谷の北端に近い峠で,南流する木曾川と松本盆地へ北流する奈良井川を分け,太平洋岸と日本海岸の分水嶺になっている。標高1197m。北側に奈良井,南に藪原の宿があり,中山道随一の難所であった。702年(大宝2)岐蘇路(きそじ)の開削とともにこの峠が生まれたが,当時は県坂(あがたざか)と呼ばれた。地名の由来は戦国時代,木曾義元が戦いに勝った時に,鳥居をたてて神に感謝したことにあるという。1890年峠を巻いて国道が通じ,1910年には中央本線のトンネルが,55年には国道19号線のトンネルが開通した。
執筆者:市川 健夫
鳥居峠 (とりいとうげ)
長野県上田市と群馬県吾妻(あがつま)郡の境にある峠。標高1362m。国道144号線が通っており,旧鳥居峠は現在の峠より北にあって標高1390mの地点を通過していた。江戸時代この峠を通る大笹街道は北国街道の脇往還として繁栄し,北信濃の種油が大量輸送されたことから油(あぶら)峠とも呼ばれた。1932年車道が開通し,上田市と嬬恋(つまごい)村など北上州を結んでいる。四阿(あずまや)山の遥拝所があり,鳥居が設けられたことからその名がつけられた。
執筆者:市川 健夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鳥居峠
とりいとうげ
長野県南西部,木曾谷の北部,中山道にある峠。標高 1197m。日本海側への奈良井川,太平洋側への木曾川の分水界をなす。和銅6 (713) 年岐蘇 (きそ) 路が開通した頃は県 (あがた) 坂と呼ばれ,信濃と美濃の国境であった。古代は木曾谷の北の境界と考えられ,中世,源義仲の子孫が鳥居を建てたことが名称の由来。近世,中山道時代は交通量が多く,貞享5 (1688) 年峠を通った松尾芭蕉の句碑などもある。中央本線と国道 19号線のトンネルが開通したことにより寂れたが,1971年自然遊歩道として整備された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報