日本歴史地名大系 「本庄宿」の解説
本庄宿
ほんじようしゆく
現本庄市の中央部に位置する中山道の宿村。江戸日本橋から一〇番目の宿にあたり、九番深谷宿と一一番の上野
〔中世〕
児玉党本庄氏の名字の地で、児玉党系図(諸家系図纂)によると、摂津一ノ谷合戦で平重衡を捕らえた庄太郎家長の弟弘季が本庄四郎(四方田氏・牧西氏とも号する)を名乗り、家長の子息のうち家次は本庄二郎左衛門尉、時家は本庄三郎左衛門尉を称している。「吾妻鏡」仁治二年(一二四一)五月六日条には、本庄四郎左衛門尉時家が路次において馬二疋を押取るという狼藉を働いたために所領を没収されたことが記されるが、そのなかに本貫地の本庄も含まれていたのであろうか。正和三年(一三一四)七月二三日には、鎌倉幕府が「武蔵国本庄内生子屋敷・立野林并畠地」をめぐる由利頼久と本庄国房の相論に裁決を下し、国房の押妨を止めて頼久の知行を認めている(「関東下知状」根津嘉一郎氏所蔵文書)。栃木県日光市
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報