本田種竹(読み)ホンダ シュチク

20世紀日本人名事典 「本田種竹」の解説

本田 種竹
ホンダ シュチク

明治期の漢詩人



生年
文久2年6月21日(1862年)

没年
明治40(1907)年9月29日

出生地
阿波徳島(徳島県)

別名
名=秀,字=実卿,通称=幸之助

経歴
はじめ徳島藩儒岡本午橋に漢籍を修め、のち京に出て谷太湖、江馬天江、頼支峰について詩を学ぶ。明治17年東京に出て駅逓局御用掛となり、以来東京府御用掛、東京府属、農商務省属を経て、25年東京美校教授、29年文部大臣官房秘書となる。32年中国を漫遊し、37年退官後は詩文に没頭した。39年自然吟社を創立、主宰晩年は清詩の研究に力を入れた。著書に「戊戍遊草」(全2巻)、「懐古田舎詩存」(全6巻)がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本田種竹」の解説

本田種竹 ほんだ-しゅちく

1862-1907 明治時代の漢詩人。
文久2年6月21日生まれ。京都で江馬天江(てんこう)らに詩をまなぶ。明治25年東京美術学校(現東京芸大)教授となり歴史をおしえる。文部大臣官房秘書などをつとめ,退官後,39年から自然吟社を主宰。明治40年9月29日死去。46歳。阿波(あわ)(徳島県)出身。名は秀。字(あざな)は実卿。通称は幸之助。詩集に「懐古田舎詩存」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「本田種竹」の意味・わかりやすい解説

本田種竹
ほんだしゅちく

[生]文久2(1862).6.21. 阿波,徳島
[没]1907.9.29. 東京
漢詩人。本名,秀 (しゅう) 。通称,幸之助。駅逓局御用掛,東京府御用掛,東京美術学校教授などを歴任。 1904年に長年の役人生活を退官してからは詩文に専念,06年自然吟社を創立して明治の漢詩壇の重鎮となったが,まもなく死去。中国,清初の詩学を吸収止揚して『梅花百種』『懐古田舎詩存』などのすぐれた編著書を残した。

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世界大百科事典(旧版)内の本田種竹の言及

【漢詩文】より

…漢詩ではまず小野湖山,岡本黄石,大沼枕山(ちんざん)らが現れ,陸游,蘇東坡(蘇軾(そしよく)),黄山谷(黄庭堅)らの宋詩を重んじて詩壇を指導した。ついで現れた森春濤(しゆんとう)・森槐南(かいなん)父子は婦女子の恋愛の感情を詠んだ香奩(こうれん)体の詩や,袁枚(えんばい),趙翼,張船山(張問陶),王漁洋(王士禎)らの清詩をさかんに鼓吹し,本田種竹らとともに明治詩壇(ことに後期)における清詩の流行をもたらした。槐南の門からは野口寧斎が出て詩名をうたわれたが,当時これらの人々と独立して活躍していたのが成島柳北,長三洲らである。…

【国分青厓】より

…藩学養賢堂に学んだのち上京し,1889年新聞《日本》の創刊に加わり時事を風刺する〈評林〉詩欄を担当して注目を集め,同紙廃刊後は《日本及日本人》に拠ってこの欄を続けた。90年9月,本田種竹らと森槐南を盟主とする詩社星社を復興し漢詩人としての地位を確立したが,種竹・槐南らの没後は大正・昭和にかけての漢詩壇の中心となった。《大正詩文》《斯文》に寄稿したほか《昭和詩文》を主宰し,1937年には芸術院会員に選ばれた。…

※「本田種竹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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