杉園村(読み)すぎぞのむら

日本歴史地名大系 「杉園村」の解説

杉園村
すぎぞのむら

[現在地名]芦北町国見くにみ

佐敷さしき川の水源をなす大関おおぜき山と国見山の麓にあり、東は球磨郡との境界をなす山が続き、北は泥泪どろめき村に接する。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に杉薗村とある。湯浦手永に属し、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、男女三二、うち女一二、一五歳から六〇歳までの男九人のうちに三人の郡筒が含まれ、竈数四、馬二とある。久木野手永および球磨郡との境界のため、水俣みなまたから久木野くぎの(現水俣市)を経る領内巡視は当村から入った。

杉園村
すぎぞのむら

[現在地名]大野町杉園 菅田すげた

あかね村の西、茜川北岸にある。南流してきた十時ととき川が当村で茜川に合流する。天文(一五三二―五五)頃と推定される四月二八日の志賀道択知行預ケ状(志賀文書)によれば、菅田名の「越中薗内新開并杉園」の三貫分が朝倉筑後入道に預けられている。正保郷帳に村名がみえ、田高五〇石余・畑高二四石余、土師はじ郷に属する。旧高旧領取調帳では高一八八石余。安永七年(一七七八)には菅田組に属し、同組大庄屋左源太の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

杉園村
すぎぞのむら

[現在地名]荻町政所まどころ

滝水たきみず川の南岸、標高五五〇メートル前後の台地水田集落が散在する。正保元禄・天保の各郷帳に村名がみえない。貞享二年(一六八五)には葎原組に属し、村位は下、高一〇一石(農民一揆)。弘化物成帳では葎原組のうち、村位は下、免三ツ、田一石余(二反余)・畑九六石余(二二町二反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はなく、開畑六石余(一三町四反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報