杜本庄(読み)もりもとのしよう

日本歴史地名大系 「杜本庄」の解説

杜本庄
もりもとのしよう

伊丹市東端部の猪名いな川東岸にあった庄園。現森本もりもとを遺称とする。嘉元三年(一三〇五)四月頃とされる摂渡庄目録(九条家文書)に山城法成ほうじよう(現京都市上京区)領として「摂津国 杜本庄 田廿四町八段 年貢薦五十枚」とある。暦応五年(一三四二)正月の摂渡庄目録(同文書)では「致景有名無実之間、不及所務」とあり、この間に武士押領を受けたものと考えられる。一方、同年四月の尼見性譲状写(彰考館蔵北河原森本文書)によると、「津のくにたちはなのミそのゝうち、もりもと大ちむら」の下司公文職などが斎藤基伝の後家見性から子息彦七(森本基康)に譲渡されており、杜本はたちばな御園のうちであった。また基康がこれ以後森本氏を称するように、杜本は同氏の実質的な支配下にあり、同氏が九条家領である当庄を押領したものと考えられる。この森本氏は伊丹氏の分家にあたり(「森本系図」同文書)、南北朝動乱では基康が建武三年(一三三六)六月の比叡山攻撃に加わったのをはじめ(同年七月日「藤原基康軍忠状」諸家文書纂)、一貫して北朝方として活躍している。


杜本庄(森本庄)
もりもとのしよう(もりもとのしよう)

興福寺雑役免田。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の添上郡に「杜本庄十五町十歩公田也」とある。公田の雑役免からなる荘園である。

その条里(括弧内は坪数)は二条五里(四)・六里(五)、四条五里(二)・六里(一五)である。この条里によると杜本庄の所在は現森本町(四条六里)と奈良市帯解田中おびとけたなか(二条五里・六里)の二地域に比定される。延久以後については、興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)の添上郡に「大乗院方 森本庄十二町四段一反切」とあり、興福寺大乗院領荘園になったものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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