日本歴史地名大系 「来栖村」の解説 来栖村くるすむら 富山県:東礪波郡平村来栖村[現在地名]平村来栖中畑(なかばたけ)村の北、庄川左岸の山地中腹の平らな地形に立地。古い時代には現在より一段高い平地にも人家があったという(平村史)。来栖の地名は天文二一年(一五五二)一〇月二七日の五箇山衆連署申定(生田家文書)の「下梨」に名を連ねる来数八郎衛門尉・来数大郎次郎の「来数」に通じる。元和五年(一六一九)の高四六石余(幕末まで変化なし)、免三ツ四歩。寛永七年(一六三〇)免三ツ二歩四厘余(幕末まで変化なし)、定納金子五両四分余・塩硝代五分(「検地見図帳並免定目録」川合家文書)。 来栖村くるすむら 茨城県:笠間市来栖村[現在地名]笠間市来栖涸沼(ひぬま)川と稲田(いなだ)川の合流点付近にあり、東は下市毛(しもいちげ)村。中世は笠間氏の支配下にあり、弘安大田文に東郡として「黒栖四十二丁五段」とある。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。茨城郡山内南郷村差出帳(石井家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高一八三・一五三石となり、万治三年(一六六〇)・延宝二年(一六七四)の新開検地で合せて一八石余を打出す。延享四年(一七四七)の来栖村差出帳(加藤家文書)によれば、村には四壁山一一、堰三、溜池六などがあり、戸数は九八・人数五二六、馬六六。産物は年貢米とともに高浜(たかはま)(現石岡市)の問屋から水路で江戸へ回漕した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報