平村(読み)たいらむら

日本歴史地名大系 「平村」の解説

平村
たいらむら

[現在地名]宇久町平郷たいらごう

宇久島の北半部とその南西の寺島てらしま村からなるが、狭義には島の南西部を占める。北西部にしろヶ岳があり、東の海に長崎ながさき鼻が突き出す。中世に地内の松尾まつお山本やまもと針木はりぎなどがみえ、うち明徳三年(一三九二)当地を拠点とすると考えられる「山本」「針木」の両氏を含む五島の二八名がうめさき会所(現平戸市か)の会合で結番次第を定めている(同年六月二二日「番立結番注文案」青方文書)。応永二〇年(一四一三)には針木武ら一三名の宇久・有河・青方住人が宇久勝を取立てることを契諾している(同年五月一〇日「宇久・有河・青方住人等一揆契諾状案」同文書)。山本墓地には五輪塔(花崗岩製)が一基分ある。

江戸時代は福江藩領宇久島掛の管轄に属し、宇久島中(宇久島村)のうちであった。寛文四年(一六六四)の五島盛勝領知目録(寛文朱印留)に平村とみえ、同年の福江領高辻帳では高八五二石余。新田畑改高は明暦元年(一六五五)に高九六石余、延宝三年(一六七五)に高六〇石余などで(天保五年福江領高辻郷村帳)、元禄一三年(一七〇〇)宇久島高辻目録では高一千六〇石余のうち蔵入四〇三石余(うち本畠三〇二石余)・給地知行四五五石余・小知行三五石余・寺社知行一二五石余、屋敷高四一石余、鯨船挽場四斗余など。


平村
たいらむら

[現在地名]都幾川村西平にしたいら

雲瓦くもがわら村の南東、都幾川と同川支流川流域の山間地に位置し、東は別所べつしよ村・田中たなか村、南東は大附おおつき村。玉川たまがわ郷に属し、小名には堰根せきね日尺につしやく奥畑おくばた入沢いりさわ曲谷まがりや狼穴おおかみあな・上ノ台・八木成沢やきなりざわなどがある(風土記稿)。また地内には白鳳時代の創建と伝える古刹慈光寺がある。天文五年(一五三六)二月一六日銘のある地内多武峯とうのみね観音堂の鰐口に「比企郡妙覚之郷平之村塔峯山」とみえる。同一九年一二月三〇日、松山まつやま(現吉見町)城主上田宗調(朝直)は「平村之内山王免土貢三貫文指添」などを浄蓮じようれん(現東秩父村)に寄進している(「上田宗調判物」浄蓮寺文書)


平村
たいらむら

面積:九四・〇六平方キロ

郡の南部に位置し、中央を庄川が北流し、東西は標高一〇〇〇メートル級の稜線を村境とする。南は庄川上流の上平村と岐阜県大野おおの白川しらかわ村、庄川下流と東側は利賀とが村、西は高清水たかしようず(一一四五メートル)高落場たかおちば(一一二二メートル)を境にして城端じようはな町と接する。河岸段丘と傾斜山地に耕作適地を求めて村を形成、集落は庄川が刻む深い谷に面した平坦地に川縁から山腹へかけて点在する。縄文時代の遺跡は発掘調査が行われた東中江ひがしなかえ遺跡、バナナ形石器が発見されている田向たむかい遺跡を代表に、杉尾すぎお下出しもで下梨しもなし来栖くるす・上梨などに点在するが、弥生時代・古墳時代の遺跡は現在のところ発見されていない。住民の先祖は口碑では平家の落人だといい、平村の村名もその平家からとする説がある。郷土民謡の麦屋節は、戦に敗れて落ちてきた平家の公達が「烏帽子狩衣ぬぎ打ち捨てていまは越路の杣やかな」などと歌い踊ったのに始まると伝える。南北朝期に南朝方の宗良親王が滞在したという伝えや遺臣が逃れてきたという説もあるが確かではない。


平村
たいらむら

[現在地名]栃尾市平・平一―四丁目・東が丘ひがしがおか

金沢かなざわ村の南。集落は刈谷田かりやだ川右岸の氾濫原と、東の入塩川いりしおがわ村へ至る途中の洪積段丘上に大倉だいぐらがある。南北朝期の年未詳一二月二日、守護上杉氏の家宰長尾高景が守門すもん神社大宮司小二郎に宛てた寄進状(渡辺謙一郎氏蔵)に「平の大くし小二郎」とみえ、「こしのこうりたかなミ之やくした」の地を従来のごとく安堵するとある。「やくした」は字薬師やくしであろうか。守門神社の社地は宮沢みやざわ寄りの通称町屋敷まちやしき付近とされ、町屋敷二〇〇軒の伝承が残る。明応(一四九二―一五〇一)頃の国衙之日記(「古文書集」所収文書)に「七百五文 ミや大宮司」とあるのは守門神社のこととみられ、その社領は国衙領に属していた。また天文一五年(一五四六)から永禄三年(一五六〇)の間と推定される七月一六日の長尾景虎寄進状(渡辺謙一郎氏蔵)によると、守門神社の修理のため平村の土貢を寄進し、不足分は高波たかなみ保七ヶ条の棟別銭で補うとある。


平村
だいらむら

[現在地名]氷見市平

石動山せきどうさん丘陵東麓に位置し、東は吉岡よしおか村、南は平沢ひらさわ村、西は能州石動山、北は高坂たかさかともよぶ蔵王ざおうを境に能登国鹿島かしま熊淵くまぶち(現石川県七尾市)と、同郡山崎やまざき(現同上)の枝村小川内おごうち(現同上)。石動山丘陵南東麓の緩傾斜地を開いて階段状に水田がつくられ、集落が営まれる。近世の石動山への越中側登拝道の一つ平沢道は、当村の南方をほぼ東西に通るほか、古くは当村の北方から高坂を北側に巻くように石動山へ至る道筋があった。寛文一一年(一六七一)の石動山山内絵図(石動山区蔵)では、平村の西方に高坂蔵王権現と注記し、その北側に道筋を描くが、元禄一〇年(一六九七)の石動山山内絵図(同区蔵)には高坂蔵王権現の北側を通る道筋に、「大呑口麓 平村」の付箋が貼られている。


平村
たいらむら

[現在地名]石岡市国府こくふ一―七丁目・府中ふちゆう一―五丁目・若宮わかみや一―四丁目・総社そうじや一―二丁目・若松わかまつ一―三丁目・北府中きたふちゆう一―二丁目・谷向やむかい町、石岡 鹿の子かのこなど

現石岡市の中心市街地にあたり、中央を南北に水戸街道が通る。古代に国府が置かれた地域で、中世には府中とよばれたが、江戸時代に入って松平頼隆が藩主となってから平村に改められた。「府中雑記」は「当地を平村に書事、慶長より寛文延宝の頃迄、諸記に見へず、天和貞享の頃より少く見ゆ、就中元禄の比より平村と書きたる多し、古説色々あれ共不詳」と記している。しかし一般には明治二年(一八六九)平村が石岡町と改称されるまで、「府中平村」「府中松平藩」などと頭に府中をつけて使われた。


平村
たいらむら

[現在地名]中之条町平

大塚おおつか村の南にあり、東は群馬郡尻高しつたか(現高山村)名久田なくた川を境に横尾よこお村の東、赤坂あかさか村の南にある。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高三〇四石余。寛文郷帳では田方六六石余・畑方一五〇石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控では高九七七石余。貞享二年(一六八五)の沼田藩領再検地控では四七〇石余。元禄郷帳では幕府領、江戸後期にも幕府領(御改革組合村高帳)。嘉永六年(一八五三)村明細帳(富沢文書)では家数一二九・人数四六一、寛政年中(一七八九―一八〇一)より家数六〇軒減、人数二八〇人余の減少。当村は名久田川にあり川と赤坂川とが注ぐ合流点にあたるため洪水の被害をうけやすかった。


平村
たいらむら

[現在地名]八王子市平町・丸山町まるやまちよう久保山町くぼやまちよう

多摩川右岸に臨む平地にあり、南は宇津木うつき村。日野の平村(現日野市)と区別するため、山之根平やまのねたいら北平きたたいらとも称した。天正一八年(一五九〇)当地名主が徳川家康を武蔵国河越かわごえ(現埼玉県川越市)まで案内した際に与えられた金銭と檜扇から、当地または同名主家を金銭平きんせんたいら(金扇平)ともよぶ。その折の扇が「風土記稿」に描かれ、現在も旧名主家に所蔵される。正保二年(一六四五)大蔵だいぞう院木造大日如来坐像銘に「平村」「大蔵院」などとみえる。田園簿に村名がみえ、畑方のみの高四三石余で幕府領。元禄郷帳でも高四三石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では幕府領四三石余。


平村
たいらむら

[現在地名]大河原町かな緑町みどりちよう東新町ひがししんちよう

郡南西端に位置し、南辺を白石しろいし川が東流、「安永風土記」に「平地ニ御座候ニ付平村と村名ニ唱来候由」とあるように、北西の丘陵以外は平坦で大部分は同川の氾濫原。東は大河原村、南は大谷おおや村、西は刈田かつたみや(現蔵王町)。白石川左岸沿いに奥州街道が通り、西方に金ヶ瀬宿が置かれた。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「仁十六〆五百文 たいら」とみえ、同二二年集成の晴宗公采地下賜録によれば柴田庄「たいらの内、さいた在け、同所きり田千かり、一貫五百はたけ」が富田主計に与えられた。正保郷帳では田七四貫八文・畑一九貫三七一文、ほかに新田二〇貫二四九文。


平村
たいらむら

[現在地名]宮前区平・五所塚ごしよづか一―二丁目・むかいおか白幡台しらはただい一―二丁目・神木本しぼくほん町一―二丁目・同四―五丁目など

村のほぼ中央を西から東へ平瀬ひらせ川が流れ、南北は丘陵。北は長尾ながお村、南は土橋つちはし村、西は下菅生しもすがお村に接し、石崎いしざき堀之内ほりのうち天台てんだい風久保かざくぼ池の谷いけのたになどの小字がある。小田原衆所領役帳に葛山「拾壱貫三百五拾文 稲毛平之村」とある。


平村
よもぎひらむら

[現在地名]長岡市蓬平町・竹之高地たけのこうち

現市域南東端、太田おおた(村松川)最上流部の山間集落。東は猿倉さるくら岳を境に種苧原たなすはら村、南は虫亀むしがめ(以上現古志郡山古志村)、西の太田川下流に濁沢にごりさわの集落がある。当村と枝村竹之高地・池谷いけたに楢木ならのき新田および虫亀村と虫亀新田を含む地域は山六ヶ村あるいは虫亀六ヶ村とも称された。のちに現山古志やまこし村を中心とした山二十村やまにじゆうむらとともに二十六村にじゆうろくむらあるいは古志こし郡山中組に属し、郡中割の帳面類に記される。


平村
たいらむら

[現在地名]若宮町平

竹原たけはら村の西、犬鳴いぬなき川支流黒丸くろまる川の流域にあり、北西部は丘陵地。古くは多伊羅とも書いた。弘安八年(一二八五)三月日の水原若宮社村々相撲次第(町村書上帳/鎌倉遺文二〇)の一〇番に「竹原 平之郷」とみえ、当地は若宮八幡宮の相撲出仕役を勤めていた。また京都六条八幡宮(左女牛八幡宮、当時は現京都市下京区、現京都市東山区若宮八幡宮社)の鞍手領(若宮庄)の内で、石松名ともよばれた。延文四年(一三五九)八月一一日、将軍足利義詮は筑前守護少弐頼尚に対し「鞍手武恒・犬丸・石松名等」への軍勢乱妨を停止し、六条八幡宮に返付するよう命じた(「足利義詮御判御教書」醍醐寺文書/南北朝遺文(九州編)四)


平村
ひらむら

[現在地名]御調町平

花尻はなじり村の北東にあり、御調川を挟んで貝原かいがはら村の南東に位置する。南は山地で釜窪かまくぼ村に接する。御調川の支流江国えぐに川が東の大町おおまち村との境を北流。御調川流域は氾濫原で、川沿いに中須賀なかすかの地名がある。御調川と江国川の合流点付近には古市ふるいち、江国川沿いに二日市ふつかいちの地名を残し、かつて当村に市場が形成されたことを物語る。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳ではうしかわ村に含まれる。


平村
たいらむら

[現在地名]白石市越河平こすごうたいら

東は伊具いぐ耕野こうや(現丸森町)、西は五賀ごか村、南は伊達だて五十沢いさざわ(現福島県伊達郡梁川町)、北は斎川さいかわ村に接する。仙台藩領の東南端にあたり、丘陵地が多くわずかに西部に耕地が展開している。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「拾貫三百文 たいらかう」とある。天正一九年(一五九一)蒲生氏郷領になり同氏高目録帳(内閣文庫蔵)には田畑等級上の「平 四百六十二石一斗三升 関十兵衛」とあり、蒲生家の重臣関氏の知行地であった。


平村
たいらむら

[現在地名]湯布院町川南かわみなみ

山崎やまさき村の西、大分川左岸沿いに位置し、対岸は光永みつなが村。慶長五年(一六〇〇)二月の速見郡・由布院知行方目録写(北九州市立歴史博物館蔵)に村名がみえ、高二三〇石余。同一六年の家数一二・人数二五(うち庄屋一・本百姓三・名子五)、牛四・馬一(小倉藩慶長人畜改帳)、元和八年(一六二二)の高は九八石余、家数一三・人数四〇(うち本百姓・小百姓八、名子三)、牛八・馬七(小倉藩元和人畜改帳)


平村
たいらむら

[現在地名]旭志村ふもと

くら岳西麓、高柳たかやなぎ村の北に位置し、北側は合志こうし川支流米井よない川下流域の水田地帯、南部から東部にかけては畑作地帯。合志氏の土地寄進を伝える戦国末期の寺社方家中侍中名附写(厳照寺文書)に「一田四反壱畝 平村善光寺」とみえる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では名請人二八人(うち屋敷持一〇)、田一〇町六反余、畠・屋敷合一八町七反余、分米二七四石四斗余。


平村
たいらむら

[現在地名]能生町平

小見おみ村の東、能生川左岸へ流入する支流島道しまみち川下流の村。森本もりもと西平にしだいらくち中江なかえの集落からなる。村はもと森本の下方の二本柳にほんやなぎにあったが、能生川の水害のため現在地に移ったという。正保国絵図に高一一八石余とある。天和三年(一六八三)の検地帳(平区有文書)によれば、田方一九町六反二畝余・畑方二〇町九反三畝余、田畑屋敷色高合三一二石余で、漆木七四本があり、名請百姓八一、うち屋敷持は四〇であった。


平村
たいらむら

[現在地名]長崎市多以良町たいらまち

三重みえ村の東部に位置し、飯盛いいもり岳・矢筈やはず岳の山系が連なり、西部を多以良川が流れる。史料上、陌苅あぜかり村と一括して扱われることが多く、天正一五年(一五八七)公領(豊臣秀吉の直轄領)となった外目そとめ村のうちで、慶長一〇年(一六〇五)大村藩領となり、陌苅平村として田畑屋敷および小物成とも高一三五石余となっている(「大村家記」など)。別に佐賀藩家老の深堀鍋島家領が置かれた。


平村
たいらむら

[現在地名]田主丸町中尾なかお

耳納みのう山地の北麓に位置する。山辺やまべ往還に沿い、西は「まがり曾根」を挟み山本やまもと紅桃林ことばやし(現久留米市)に接する(上三郡絵図)。文亀二年(一五〇二)三月三日の大友親治宛行状案(草野文書/久留米市史7 資料編古代・中世)によると、草野中務少輔(重永)の本新望の地に「竹野郡末吉三町、平三町」などがあり、永正五年(一五〇八)一一月には草野太郎(興秀)に安堵された(同月三日「草野興秀知行目録案」同上)


平村
ひらむら

[現在地名]稲築町平

鴨生かもお村の南に位置し、東は有安ありやす村・赤坂あかさか(現庄内町)との境を大法山たいほうざん地塁とよばれる二六〇メートル内外の一連の山並が南北に連なる。「続風土記」などは才田さいだ村を枝村とする。小早川時代の指出前之帳では平村の田五四町八反余(分米五七二石余)・畠一一町二反余(分大豆六五石余)。慶長七年(一六〇二)の嘉麻郡平村検地帳(西田文書)によると田五七町九反余・高六六八石余、畠一一町四反余・高六二石余。


平村
たいらむら

[現在地名]稲沢市平町・平〈江向えむかえ町・尾苅おがり町・金森かなもり町・苅田かりた町・細工蔵さいくぞう町・高道たかみち町・はちつぼ町・仏供田ぶくでん町〉

西は中野なかの村に接し、村の北西隅を流れる光堂ひかるど川の氾濫原にあり、本郷は南西にある(天保村絵図、徇行記)。天正末には織田信雄の家臣山口利助の知行地であった(織田信雄分限帳)

概高六三五石余で、五九七石余は藩士一一人の給知。田地二九町五反六畝余・畑地一六町六反二畝余、新田一石余。


平村
たいらむら

[現在地名]名川町平

八戸はちのへ城下(現八戸市)の南西、馬淵まべち川の中流右岸の河岸段丘に位置する。東から北へ馬淵川の支流如来堂によらいどう川が流れる。北は下名久井しもなくい村、西は上名久井村、南は法光寺ほうこうじ村に接する。

藩政当初は盛岡藩に属したが、寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入された。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に名久井通なくいどおり村八ヵ村の一として村名がみえ、高三七五・二六石、うち畑二一〇・九一石とある。延享三年(一七四六)の戸口は一〇〇軒・五〇七人で、馬一二五疋・牛一疋を飼養(「御巡見通行ニ付御差立勤方覚」概説八戸の歴史)


平村
たいらむら

[現在地名]日野市南平みなみだいら一―九丁目・南平・多摩平たまだいら二―六丁目・富士町ふじまち旭が丘あさひがおか一―三丁目など

高幡たかはた村の西にあり、村の北側をあさ川が流れる。天文(一五三二―五五)頃に原図が作られたとみられる高幡高麗一族屋敷・下地等絵図(史籍雑纂)によると、浅川の南岸、新井あらいの域内に「左衛門じ 平之村」とあり、高幡高麗一族の高麗左衛門の家臣が領していたようである。田園簿に村名がみえ、田方一三五石余・畑方五六石余、幕府領。寛文七年(一六六七)の検地により田方二一町四反余・畑方一五町三反余・屋敷一町二反余(「多麻郡平村検地帳」平家文書)。元禄郷帳では高二七八石余。享保一九年(一七三四)・延享三年(一七四六)・同五年・明和九年(一七七二)にも検地が行われた(「小宮領平村田畑村鑑控」平家文書)


平村
ひらむら

[現在地名]大垣市平町

揖斐いび川流域の平地、大垣輪中の東部に位置し、北は直江すぐえ村・小泉こいずみ村。永正―天文年間(一五〇四―五五)に開発され、天正期(一五七三―九二)に揖斐川の中洲にあったまき(現安八郡安八町)の一部を編入したという(新修大垣市史)。その後、揖斐川の流路の変化によって現在の平町は同川の対岸に飛地を残すが、これが編入の名残であろう。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高五五五石。正保郷帳では田高三七七石余・畑高三〇〇石(岩瀬文庫本正保郷帳では高六八三石余)。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高九四三石余。享和三年(一八〇三)の家数一三九・人数五九三(新修大垣市史)


平村
たいらむら

[現在地名]東松山市東平ひがしだいら殿山町とのやまちよう沢口町さわぐちちよう

なめ川を挟んで松山町の北東に位置し、北西は大谷おおや村、東は横見よこみ長谷ながやつ(現吉見町)、北は大里郡甲山かぶとやま(現大里町)。村域の大部分は台地が占めるが、西部には大谷村から続く大きい谷が発達、東部にも谷があり、これらの谷水は南下して滑川に合流する。各谷には谷田が発達し、谷の上には溜池が設けられている。田園簿では「ヘイ」と訓じ、田高一六九石余・畑高一四〇石余、旗本岡野領。延宝四年(一六七六)に検地が行われた(風土記稿)。国立史料館本元禄郷帳によると慈光寺(現都幾川村)などの寺領があった。岡野領は岡野平三郎の時代に一部が一族の岡野主水に分知される。


平村
たいらむら

[現在地名]白浜町平

東は富田とんだ川を隔てうちかわ村に相対し、北は岩崎いわさき(現上富田町)、西は堅田かたた村。集落は富田川右岸の丘陵裾部の平坦地に発達する。「続風土記」は「土地広平なるに因りて平の名あり」と記す。延文五年(一三六〇)五月七日付久木八郎宛畠山義深奉書(小山文書)に「於平城合戦家人致疵」とあり、同年畠山国清・義深の率いる軍が紀州へ進撃し、大規模な作戦を行ったが、この作戦は当地を含むと思われる富田庄に及んだことが知られる(同年六月一日付「久木八郎宛畠山義深宛行状」同文書)。中世は吉田氏の勢力下に置かれたと伝える(続風土記)

慶長検地高目録によると村高一九四石余、天保郷帳では二四九石余に増加。


平村
たいらむら

[現在地名]勝央町平・太平台たいへいだい

勝間田かつまだ村の北に位置する。「東作誌」によれば、北の植月中うえつきなか村に属していたが天正(一五七三―九二)頃分村したという。壇ノ浦の戦で入水した平知盛の次男知忠が、文治二年(一一八六)植月庄に居住したことから村名が起こったと伝える(美作太平記)。正保郷帳に村名がみえ、田二四五石余・畑三八石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高五八石余・開高二一石余、村位は中。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると延宝(一六七三―八一)頃と推定される戸数二三(うち宮谷二など)、津山藩家臣梶川与一兵衛二〇〇石・同三輪十大夫七四石余、ほか二人の給地。津山藩主森氏断絶後は初め幕府領、延享四年(一七四七)から常陸土浦藩領(美作国郷村支配記)


平村
ひらむら

鞆町の南側で、後地うしろじ村の元禄検地高のうち、三三町六反六畝一歩、二二一・五九一石が平村分とされた(福山志料)。そのうち田は一町七畝二歩・一四石五斗一升一合で原村よりは多いが、ほとんどが畠といってよく、屋敷は二町五畝余。戸口は、宝永八年(一七一一)に八五軒・四四〇人、文化一三年(一八一六)では一〇六軒・六四四人(備後郡村誌)。農業のほか、日雇・網すきをしていた。ただ、原村では牛が二、三疋しかなかったがここでは一五疋あり、船数も宝永八年で原村三艘に対し、平村は一五艘(同書)と少し異なり、平村には瓦師もいたようである。


平村
たいらむら

[現在地名]かつらぎ町平

東谷ひがしたに村の西に位置し、中世は高野山領四郷しごうに属したと考えられる。慶長検地高目録による村高二三七石余、小物成三石九合。小名として下津川しもつがわ大久保おおくぼがあり(続風土記)、天保郷帳は、平村は古くは平村・下津川村・大久保村三ヵ村であったと記す。丁ノ町組に属し、宝永五年(一七〇八)の伊都郡丁之町組大指出写(中谷正敏氏蔵)によると、当時の村高は二四三石余、家数八六、人数五二六、井手一四で、葛城先達行所二ヵ所(金剛童子・経塚)があった。


平村
たいらむら

[現在地名]舞鶴市字平

大浦半島南端に位置し、舞鶴湾に臨む沿岸集落。三浜みはま峠を越えて三浜村・小橋おばせ村と結ばれる。集落の東部丘陵上から古墳や石器などの遺物が発見されている。

延徳二年(一四九〇)の河辺村半済方御年貢米銭納帳写(現在所在不明、「西大浦村誌」所引)に、多禰寺たねじ(村)分を含むとして

<資料は省略されています>

とある。江戸時代に入り、慶長検地郷村帳に高四四九・三二石「平村」とみえ、江戸後期の土目録でもほぼ同高で、内訳は田方三七〇石余、畑方七九石余。


平村
ひらむら

[現在地名]大山町平

宮内みやうち村の北西、孝霊こうれい山最北麓、阿弥陀あみだ川扇状地の扇頭部にある。北端を江東こうとう川支流が北流、大山道(坊領道)が北西から南東へ通る。拝領高は三四〇石余、本免四ツ五分。米子荒尾氏の給地(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四二二石余、竈数三〇。藪役銀七匁六分を課されていた(藩史)。明治二一年(一八八八)の家数三一(農二八・商一・その他二)・人数一四七(男八〇・女六七)、田三一町三反余・畑二町一反余・山林二七町四反余・原野四町八反余(「調書」大山村史料集)


平村
たいらむら

[現在地名]竹田市会々あいあい

おか城下から久住くじゆう(現久住町)に至る道に沿い、西は鹿口かぐち村。正保郷帳では飛田ひだ郷に属し、田方七一石余・畑方一五六石余。弘化物成帳では飛田組のうち、村位は中、免七ツ八分、田一三四石余(一二町六反余)・畑八五石余(一四町五反余)・屋敷八石余(八反余)で、開田はほとんどなく、開畑一石余(二町四反余)がある。また御家中預地二畝余がある。旧高旧領取調帳では高二七〇石余。


平村
へいむら

[現在地名]丹後町平

川の河口近くに位置し、西に山を負い、北・東・南は開けて一帯は田圃である。伊根街道が村内を通る。村域内から縄文前期―弥生前期の平遺跡が発見されている。宇川地域(中世の宇川保、近世初期の宇川村)の総鎮守といわれる八幡社があり、宇川における中心的な土地であった。また石清水いわしみず八幡宮(現八幡市)の宿院極楽ごくらく寺領平庄が当地域に比定される。

慶長検地郷村帳には村名がみえないが、延宝三年郷村帳に「宇川庄 平村」高一一六・六一六石とある。


平村
へいむら

[現在地名]西郷町平

国分寺こくぶんじ村の南西に位置し、八尾やび川が流れる。永禄七年(一五六四)八月一九日の都万久清寄進状写(億岐家文書)に平分とあり、その一段が惣社に寄進されている。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田五四石余・四町七反余、畑六石余・五町一反余、ほかに新田畑四石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)四匁・核苧一八〇目役五分、家数一三(百姓四・間脇九)のうち御役目屋敷四、人数九二、牛八・馬七、鉄砲二、大船一。牛頭天王など二社が鎮座、禅宗の東養とうよう寺がある。


平村
ひらむら

[現在地名]武芸川町平

武儀川右岸に位置し、対岸は八幡はちまん村、南東は跡部あとべ村。中世には山口やまぐち郷の内とされ、枝郷舞子まいご村がある(新撰美濃志)。慶長郷帳に村名がみえ、高二九六石余。江戸初期には幕府領。元和五年(一六一九)尾張藩領となり、幕末に至る。正保郷帳では田高二一六石余・畑高七九石余・紙舟役二石余・山年貢八石余。明暦覚書では概高三五九石余、人数三九〇、馬二八。「濃州徇行記」によれば田畑二八町五反余、家数五八・人数二五五、馬一四。北西の宇多院うだいん村境にある舞子の家数一二ほど。


平村
たいらむら

[現在地名]八女市平

ひかり村の西に位置する。文亀三年(一五〇三)一一月日の大友親匡安堵状(筑後将士軍談/増補訂正編年大友史料一三)によれば、「平」の一〇町や宮野みやの八町などが上妻新三郎(能家か)に安堵されている。元禄五年(一六九二)の田一一町四反余、畑・居屋敷八町三反余(「新庄組井手水掛畝高帳」矢賀部家文書)。本高は一七二石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三〇〇石・役高二九五石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高三〇〇石。文化一五年(一八一八)の田畑春免高外書上帳(矢賀部家文書)では本田一二町四反余・畑田一町余・畑八町余・居屋敷二反余、物成米一〇七石余・大豆二九石余、古高・春免高のほか山口高一七二石余とあり、夏物成銀三一五匁・受藪運上銀一八匁余・楮運上銀二匁・運上柿渋三升三合、人家三三・人数一七四、作馬一六。


平村
たいらむら

[現在地名]七宗町川並かわなみ たいら

飛騨川左岸、この辺りは絶壁の谷をなし、集落は山腹に位置する。近世上吉田かみよしだ四郷の一つ。北は武儀むぎかちほら村、南はたけ(現八百津町)。元禄郷帳では高二六石余。「濃州徇行記」には高二一石余、文化八年(一八一一)の上吉田村田畑覚(井戸文書)では高二一石余、田高四石余・畑高一六石余。


平村
よもぎひらむら

[現在地名]松代町蓬平

東は会沢あいさわ村、北は田代たしろ(現刈羽郡高柳町)、南は松代村に接し山間にある。松代村より当村を経て会沢村・清水しみず村・桐山きりやま村を通り柏崎へ抜ける街道を柏崎街道と称する。正保国絵図に村名がみえ、天和三年郷帳の蓮浄寺本に高三一石七斗余とある。反別八町三反余・青苧畑五反余で、漆木九九本。安永九年(一七八〇)新田検地では高四六石五斗余。


平村
たいらむら

[現在地名]野迫川村大字平

川原樋かわらび川の左岸、標高約七五〇メートルの山腹台地に立地。文永四年(一二六七)の十津川十八郷庄司等起請文案(高野山文書)に「太羅地貫主宗依」の署名がみえる。太羅は平であろう。

十二村じゆうにそん組に属する。慶長郷帳では十二村二〇〇石のうちに含まれ、幕府領。延宝検地により村高は一二・八五五石となった。延宝七年(一六七九)の大和国吉野郡十二村郷之内平村検地帳によると、合一町七反九畝一九歩、分米一二・八五五石、ほかに山手銀一六匁、名請人二九、屋敷持二五。


平村
てらむら

[現在地名]笠利町たいら

節田すいつた村の北西に位置し、南に海に面して土浜つちばまがある。北東に大刈山ふーがりよがある。笠利かさん間切赤木名はつきな方のうちで、西の笠利方手花部ていーぶ村に通じる道がある。テェラ・テリャともいう。


平村
たいらむら

[現在地名]門前町平

二又川ふたまたがわ村の南東、はつヶ川上流北岸の河岸段丘に立地。天正年間(一五七三―九二)の一〇月五日付三輪吉宗書下(道下村文書)に「一尺 たいら」とみえ、八ヶ川の鮭川役として一尺を賦課されていた。正保郷帳では高五七石余、田方二町九反余・畑方九反余。承応三年(一六五四)の村御印の高五九石余、免四ツ八歩(能登奥両郡収納帳)


平村
たいらむら

[現在地名]谷田部町平

柳橋やぎはし村の西、蓮沼はすぬま川と東谷田ひがしやた川との合流点の北に位置。江戸時代には旗本大久保氏の知行地となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には大久保録太郎の知行地で村高一〇三・六四八石。


平村
たいらむら

[現在地名]竹田市平田ひらた

挟田はさだ川上流西岸にある。正保郷帳では長田ながた郷に属し、田方三九石余・畑方六二石余で、柴山有と注記される。弘化物成帳では平田組のうち、村位は中、免七ツ七分、田三七石余(三町六反余)・畑四〇石余(六町七反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はほとんどなく、開畑五斗余(八反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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