日本歴史地名大系 「笠間市」の解説 笠間市かさまし 面積:一三〇・八七平方キロ県西部、朝房(あさぼう)山・国見(くにみ)山・仏頂(ぶつちよう)山・鍬柄(くわがら)山・棟(ぐし)峰・吾国(わがくに)山などの八溝(やみぞ)山系・筑波山系の山々に囲まれた笠間盆地に位置し、東は水戸市・西茨城郡友部町・東茨城郡内原町、南は西茨城郡岩間町・新治(にいはり)郡八郷(やさと)町、西は西茨城郡岩瀬町・栃木県芳賀(はが)郡茂木(もてぎ)町、北は西茨城郡七会(ななかい)村・東茨城郡常北(じようほく)町に接する。笠間の初見は「常陸国風土記」で「郡より東五十里に笠間の村あり。越え通ふ道を葦穂山と称ふ」とある。〔原始〕縄文遺跡は市北東部の山間地帯、笠間盆地周辺の丘陵地、北西部の台地などに多く分布し、弥生遺跡は盆地内の台地に若干みられる。古墳は来栖(くるす)・石井(いしい)・飯岡(いいおか)・箱田(はこだ)・大淵(おおぶち)など盆地周辺の台地と池野辺(いけのべ)の山間地に分布するが、いずれも規模の小さい円墳である。〔古代〕律令国家の体制がしだいに確立されるにつれて、中央と地方を結ぶ交通も整備され、当地方にも大神(おおがみ)駅が置かれた(「常陸国風土記」逸文)。大神駅は安侯(あご)駅(現岩間町)を通って常陸国府(現石岡市)と結ばれ、西に向かっては新治郡衙(現真壁郡協和町)を通って下野国府(現栃木県栃木市)へ続く重要な幹線に位置していた。市域に比定される「和名抄」記載の郷は新治郡の巡廻(めぐり)・井田(いた)・巨神(おおかみ)の三郷と茨城郡の石間(いわま)郷の一部、那珂郡の安賀(あか)郷の一部である(新編常陸国誌)。平将門の乱には将門側に笠間押領使平常遠も加わり、平貞盛に滅ぼされている。この時小島美濃守は美濃殿谷原(みのどのやわら)(現笠間高校周辺)で戦死したと伝えられる。また盆地東部の佐白(さしろ)山には佐白山正福(しようふく)寺百坊があって強い勢力を保持していた。〔中世〕市域は旧新治郡の東部にあたるので東郡あるいは笠間郡と私称した。東郡は弘安大田文に「吉原四丁三段小 福原十八丁六段小 稲田社十七丁小 赤沢十四丁一段半 野尻二丁二段小 本殿廿丁五段 大蔵省保五十一丁二段大 大淵九十四丁二段六十歩 黒栖四十二丁五段 方庭四十七丁三段 石井原七丁八段 大蔵庄五十一丁二段大」とあり、笠間郡は永仁三年(一二九五)頃の「本願寺聖人親鸞伝絵」に「笠間郡稲田郷」とみえる。 笠間市かさまし 2006年3月19日:笠間市と西茨城郡友部町・岩間町が合併⇒【友部町】茨城県:西茨城郡⇒【岩間町】茨城県:西茨城郡⇒【笠間市】茨城県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「笠間市」の意味・わかりやすい解説 笠間〔市〕かさま 茨城県中部,八溝山地南端にある市。 1958年市制。 2006年友部町,岩間町と合体。中心市街地は古くから笠間稲荷神社 (本殿は国指定重要文化財) の門前町,水戸街道の宿場町,城下町として発展。笠間稲荷神社は周辺一帯に信者が多く,観光事業が市の重要産業。クリを特産するほか養豚も行なわれる。名産に笠間焼がある。稲田は建築土木用石材 (花崗岩) の採石,加工地として知られ,親鸞ゆかりの西念寺がある。笠間城跡,稲田神社があり,片庭の楞厳寺 (りゅうごんじ) のヒメハルゼミ発生地は国の天然記念物に,山門は国の重要文化財に指定されている。愛宕神社には悪態祭 (→悪口祭 ) といわれる奇祭が伝わる。市域の北西部は笠間県立自然公園に,西部は吾国愛宕県立自然公園に属する。 JR常磐線,水戸線,国道 50号線,355号線が通り,常磐自動車道の岩間インターチェンジ,北関東自動車道の友部インターチェンジがある。面積 240.40km2。人口 7万3173(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by