日本歴史地名大系 「来馬村」の解説 来馬村くるまむら 兵庫県:津名郡東浦町来馬村[現在地名]東浦町久留麻(くるま)、淡路(あわじ)町久留麻河内(こうち)村の東、浦(うら)村の南にあり、東に海(大阪湾)を望む。ほぼ中央を今出(いまで)川が東流して海に入る。岩屋(いわや)街道が海沿いを南北に通り、街道沿いの中北(なかきた)・大北(おおきた)・引野(ひきの)とよばれる辺りに人家が集まっていた。ほぼ中央部街道西側に伊勢久留麻(いせくるま)神社がある。その横を谷沿いに津名丘陵を越えて西へ向かう道は、河内村、小田(おだ)村(現北淡町)を経て西浦へ通じる。「和名抄」記載の津名郡来馬郷の遺称地。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に「松殿僧正御房領」として来馬庄がみえ、地頭は木河二郎、田六〇町、畠、浦一所、伊勢宮一所からなっていた。地頭の木河氏は梶原景時討伐の功により、駿河国より入部した水軍吉川氏の一族と考えられる。 来馬村くるまむら 長野県:北安曇郡小谷村来馬村[現在地名]小谷村大字北小谷(きたおたり) 来馬新潟県境に接し、姫(ひめ)川峡谷の左岸に所在する山村である。来馬の名は、天正八年(一五八〇)四月二〇日付の武田勝頼安堵状(倉科文書)に「小谷之内来馬寺分壱貫五百文」を倉科朝軌に安堵したとあるのを初見とする。これにより、武田・上杉両氏の抗争の中で、来馬は当時武田氏に属していたことが判然とする。江戸時代初期には、後の大網(おあみ)村・石坂(いしざか)村とともに西小谷村に属していたが、慶安二年(一六四九)の松本藩の検地施行の時から独立して来馬となっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by