日本歴史地名大系 「西浦」の解説
西浦
にしうら
- 福井県:敦賀市
- 西浦
敦賀湾西岸に面する敦賀半島の漁村を総称して西浦とよぶ。「越前国名蹟考」は、
西浦一〇ヵ浦は寛永元年(一六二四)まで福井藩領、以後廃藩置県まで小浜藩領。一〇ヵ浦は全体として浦方(本浦)であるが、「此内八ケ浦ハ少々田畠御座候、立石・白木二ケ浦ニハ田畠少も無御座候、右何れも猟かせぎを第一に仕、大勢之者共渡
西浦
にしのうら
西浦村内に設定された玄界灘に面した浦分。集落は本村の北側、南北に延びる砂丘帯上にある(続風土記拾遺)。対馬国宗氏の一族を舟で筑前に運んだ漁人左近四郎が西浦に居住し、漁人となったのが西浦の集落の始まりという(続風土記)。慶長一〇年(一六〇五)八月二五日の黒田長政掟書(新訂黒田家譜)に西浦がみえ、近世初期から浦として把握されていた。網代境は東は岬(西浦崎)が
西浦
にしうら
伊豆半島の北西部、駿河湾東奥の海岸部をいう。中世の史料には「西浦五ケ村」「西浦七ケ所」などとみえる。天正一八年(一五九〇)四月豊臣秀吉は「西浦庄内」の「三津郷 長浜郷 おもす郷 木
天文一三年(一五四四)二月二二日、北条氏は「西浦」の長浜百姓中に対して火事を理由に番肴の納入を一時免除している(「北条家朱印状」木負大川文書)。同一七年五月一日北条氏は「西浦七ケ所」の船役銭を三六艘分の七貫一〇〇文に定め、それを超える分については免除している(「北条家朱印状」長浜大川文書)。
西浦
かさいうら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報