植村文楽軒(読み)ウエムラブンラクケン

デジタル大辞泉 「植村文楽軒」の意味・読み・例文・類語

うえむら‐ぶんらくけん〔うゑむら‐〕【植村文楽軒】

人形浄瑠璃文楽座座元。
初世)[1751~1810]江戸時代後期の人。大坂に人形浄瑠璃座「高津こうづ新地の席」を創設、文楽座の基礎を築いた。
(4世)[1813~1887]江戸後期から明治の人。文楽中興の祖。本名、正井大蔵。通称文楽翁。大阪松島新地に文楽座を名乗って興行、文楽の全盛時代を導いた。

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精選版 日本国語大辞典 「植村文楽軒」の意味・読み・例文・類語

うえむら‐ぶんらくけん【植村文楽軒】

  1. 江戸後期の操り芝居の興業師。
  2. [ 一 ] 初世。淡路の人。本名柾木大蔵。文楽軒人形芝居(のちの文楽座)の創始者宝暦元~文化七年(一七五一‐一八一〇
  3. [ 二 ] 三世(二世証楽の養子清六を三世とすれば四世)。本名正井大蔵。天保一三年(一八四二)の政令で一時衰微した文楽を復興させ、文楽翁と呼ばれた。文化一〇~明治二〇年(一八一三‐一八八七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「植村文楽軒」の意味・わかりやすい解説

植村文楽軒
うえむらぶんらくけん

人形浄瑠璃(じょうるり)劇団、文楽座の座元。6世まであるが、初世と4世とが有名。

初世

(1737―1810)阿波(あわ)(徳島県)の出身で、本名は道具屋大蔵。道具屋を業としたが、若いころより浄瑠璃を得意とし芸名に文楽軒を名のった。寛政(かんせい)(1789~1801)のころ大坂へ出て浄瑠璃の稽古(けいこ)所を開き、姓を植村と改めた。1805年(文化2)ごろ「高津新地(こうづしんち)の席」という人形浄瑠璃座を設け、今日の文楽座の基礎を築いた。初世没後、妻テルの甥(おい)正井貞蔵(ていぞう)が2世を継ぎ、博労(ばくろう)町難波(なにわ)神社境内に稲荷(いなり)の芝居を経営した。

[山本二郎]

4世

(1813―87)本名を正井大蔵(のち植村に改姓)、文楽翁を称した。天性慧敏(けいびん)で経営の才に富み、稲荷の芝居は隆盛に赴いた。ところが天保(てんぽう)の改革で社寺内の興行が禁止されたため、各地を転々、苦難の経営を続けたが、1872年(明治5)大阪市西区松島に「官許人形浄瑠璃文楽座」の看板を掲げ、やがて斯界(しかい)の指導的地位を占め、文楽中興の祖とうたわれた。6世のとき経営不振となり、1909年(明治42)文楽座は植村家から松竹合名社に譲渡されるに至った。

[山本二郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「植村文楽軒」の意味・わかりやすい解説

植村文楽軒 (うえむらぶんらくけん)
生没年:1751-1810(宝暦1-文化7)

人形浄瑠璃文楽の芝居(後の文楽座)の創始者。本名正井(一説に征木(まさき))与兵衛。淡路国仮屋(一説に阿波国)出身。竹本座,豊竹座廃絶後の寛政年間(1789-1801)に大坂に出て,道頓堀の東,高津(こうづ)橋南詰西の浜側に人形浄瑠璃の席を開いた。〈文楽軒〉は本人の素人義太夫の芸名,植村は淡路の人形座の元祖といわれる上村源之丞をならったという。のちに堀江市の側に進出。1810年に60歳で没した。その後,4世に当たる大蔵(文楽翁)が経営の才にすぐれ,座運を向上させた。72年(明治5),政令によって新開地の松島へ移転,初めて正式に〈文楽座〉を名のった。84年御霊(ごりよう)社境内に移り,竹本摂津大掾(だいじよう)を中心に文楽黄金時代を作り上げたが,文楽翁の没後は経営が行き詰まり,1909年松竹に経営権を譲渡した。
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朝日日本歴史人物事典 「植村文楽軒」の解説

植村文楽軒(初代)

没年:文化7.7.9(1810.8.8)
生年:宝暦1(1751)
人形浄瑠璃文楽座の始祖。本名は正井与兵衛,文楽軒は素人浄瑠璃の芸名,植村姓は淡路人形の座本の上村源之丞をもじったもの。淡路島仮屋(兵庫県津名郡淡路町)の出身で,竹本,豊竹両座が退転し人形浄瑠璃が衰微しはじめた寛政ごろ(18世紀末)までに大坂に出て,高津橋南詰西の浜側に浄瑠璃稽古場を開き,さらに文化2(1805)年,高津新地に小屋をたて人形浄瑠璃の興行を始めたのが,のちの文楽座の源流となった。文化6(1809)年,堀江市の側に移り,2年後2代目文楽軒(嘉兵衛・浄楽)が博労町の難波神社境内,通称「稲荷の芝居」に進出,興行主としての地歩を固めた。以後,文楽軒の名は5代を数えるが,特に初代の孫の3代目(4代目とも)大蔵(文楽翁)が傑物で,明治維新の混乱期によく危機を乗り越えて松島文楽座,さらに御霊文楽座へと発展。これに対抗して明治17(1884)年に旗あげした彦六座との競争が人気をあおり,明治期における人形浄瑠璃の隆盛を築き上げ,文楽の名称が人形浄瑠璃の代名詞として通用するまでに至った。しかし,その死後は座運が傾き,42年になって経営は松竹の手に移った。<参考文献>国立劇場芸能鑑賞講座『文楽』,『義太夫年表/明治篇』

(山田庄一)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「植村文楽軒」の解説

植村文楽軒
うえむらぶんらくけん

人形浄瑠璃劇場文楽座の経営者。江戸後期~明治期に6世を数える。初世(1751~1810)は淡路島の出身。本名正井与兵衛,釈楽道と号した。18世紀末に大坂へ出て,高津(こうづ)に浄瑠璃稽古所を開業。2世(1784~1819)は初世の子。本名嘉兵衛,釈浄楽と号す。文化年間に大坂博労町難波神社境内に「稲荷の芝居」(文楽の芝居)を経営。4世(1813~1887)は2世の子で,本名大蔵。釈真教と号し,俗に文楽翁とよばれる。宮地芝居が禁じられた天保の改革以後,大坂市内を転々としながらも浄瑠璃興行を続けた。1872年(明治5)官許人形浄瑠璃文楽座の看板を掲げ,松島新地で文楽座の全盛期を迎えた。文楽翁の死後は経営不振となり,孫の6世(本名泰蔵)は1909年経営を松竹に譲った。

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20世紀日本人名事典 「植村文楽軒」の解説

植村 文楽軒(6代目)
ウエムラ ブンラクケン

明治期の文楽座劇場主



生年
明治3年(1870年)

没年
大正4(1915)年6月11日

本名
植村 泰蔵

経歴
5代目植村文楽軒の子として生まれる。竹本摂津大掾を中心に人形浄瑠璃文楽座の全盛を築いた。明治42年経営不振により文楽座を松竹合名に譲渡した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「植村文楽軒」の解説

植村文楽軒(4代) うえむら-ぶんらくけん

1813-1887 江戸後期-明治時代の人形浄瑠璃(じょうるり)劇場主。
文化10年生まれ。2代植村文楽軒の子。天保(てんぽう)の改革で宮地芝居が禁止され各地を転々としたが,明治5年大阪松島新地に官許人形浄瑠璃文楽座の看板をかかげて興行。のち御霊神社境内に移転。文楽中興の祖とよばれた。明治20年2月15日死去。75歳。本名は正井大蔵。のち植村と改姓。通称は文楽翁。

植村文楽軒(初代) うえむら-ぶんらくけん

1751-1810 江戸時代後期の人形浄瑠璃(じょうるり)劇場主。
宝暦元年生まれ。寛政のころ大坂にでて,文化2年ごろ「高津(こうづ)新地の席」という人形浄瑠璃の小屋をひらく。のちの文楽座のはじまりで,6年北堀江市の側に小屋をうつした。文化7年7月9日死去。60歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。通称は道具屋与兵衛。

植村文楽軒(2代) うえむら-ぶんらくけん

1784-1819 江戸時代後期の人形浄瑠璃(じょうるり)劇場主。
天明4年生まれ。初代植村文楽軒の子。文化7年2代文楽軒をつぎ,翌年,大坂博労(ばくろう)町の難波神社境内に「稲荷の芝居」とよばれる人形浄瑠璃の常設小屋をひらいた。文政2年死去。36歳。名は嘉兵衛。初代の妻テルの甥(おい)貞蔵という説もある。

植村文楽軒(6代) うえむら-ぶんらくけん

1870-1915 明治時代の人形浄瑠璃(じょうるり)劇場主。
明治3年生まれ。植村文楽軒5代の子。竹本摂津大掾(だいじょう)を中心に人形浄瑠璃文楽座の全盛時代をむかえるが,事業に失敗。経営不振から明治42年文楽座を松竹合名にゆずりわたした。大正4年6月11日死去。46歳。本名は泰蔵。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「植村文楽軒」の意味・わかりやすい解説

植村文楽軒(3世)
うえむらぶんらくけん[さんせい]

[生]文化10(1813)
[没]1887.2.15.
人形浄瑠璃文楽座の座主。系譜上は4世にあたる。本名正井大蔵。危機に陥っていた文楽を救った中興の祖で,「文楽翁」と称される。明治5 (1872) 年大阪松島に官許の劇場「文楽座」を創設した。なお,名跡は5世 (または6世) まである。

植村文楽軒(1世)
うえむらぶんらくけん[いっせい]

[生]宝暦1(1751)
[没]文化7(1810)
人形浄瑠璃文楽座の座主。姓は正井。文楽軒は号。淡路 (または阿波) 出身で,寛政年間 (1789~1801) 大坂高津新地に人形浄瑠璃の席 (小劇場) を創立。これは文化8 (11) 年2世のとき,常打ちの劇場となった。

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世界大百科事典(旧版)内の植村文楽軒の言及

【人形浄瑠璃】より

… このころより,人形浄瑠璃は三味線音楽の発達(朱と呼ばれる譜を発明)と相まって,芸の練磨・伝承に重点が置かれ,古典化の途をたどる。ただし人形浄瑠璃の観客数は必ずしも減少したわけではなく,大坂市中には群小座が分立し,その中から19世紀初頭に,高津橋南詰(現在の国立文楽劇場付近)に植村文楽軒が建てた小劇場が,後に難波神社境内に移り,文楽の芝居と呼ばれ,幕末・明治期人形浄瑠璃界の中心勢力となり,1909年(当時,御霊(ごりよう)文楽座)に経営が植村家から松竹合名会社に移って以後も,文楽座の名称は残り,大正・昭和ころから〈文楽〉は人形浄瑠璃の代名詞となった(祐田善雄《浄瑠璃史論考》参照)。文楽【内山 美樹子】
[明治期の人形浄瑠璃]
 1872年(明治5),文楽軒の小屋は文楽座と名乗るが,当時,すでに文楽座は他座に抜きん出た大一座であった。…

【文楽座】より

…人形浄瑠璃の劇場名。淡路から大坂へ出た植村文楽軒は,寛政期(1789‐1801)に人形浄瑠璃を始めたという。そして1811年(文化8)のころには,〈文楽の芝居〉と呼ばれていた。…

※「植村文楽軒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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