東魚町(読み)ひがしうおまち

日本歴史地名大系 「東魚町」の解説

東魚町
ひがしうおまち

[現在地名]姫路市坂田町さかたまち大黒壱丁町だいこくいつちようまち

姫路城南東の外曲輪に位置する町人町平野ひらの町の北にあり、堀沿いに南北に延びる町筋で東は坂田町町名は料理屋や生魚屋があったことによる(大正八年刊「姫路市史」)。元和(一六一五―二四)頃の姫路城下図(多木文化振興会蔵)には本魚もとうお町とみえ、慶長六年(一六〇一)の町割以前に町場化が進んでいたと考えられる。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図に町名がみえる。姫路町書上帳、元文五年(一七四〇)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数四三・地子銀七三一匁余。


東魚町
ひがしうおまち

[現在地名]明石市本町ほんまち一丁目

明石城の細工さいく御門と追手おつて御門の間、外堀沿いの町で、南は山陽道沿いの東本ひがしほん町に接する。元和四年(一六一八)築城とともに成立した明石惣町一〇町の一町(明石名勝古事談)。享保六年(一七二一)改によれば役門二七間、家数八九(本家五二・借家三七)、建家表地口一六八間半一尺五寸、人数四四六。大和屋弥兵衛前の丁をなめら町とよんでいた(明石記)


東魚町
ひがしうおまち

[現在地名]佐賀市呉服元町ごふくもとまち中央本町ちゆうおうほんまち

元町の南にこれと直角に南北に走る町人町。長崎街道には面していないが、武家屋敷や町人町に囲まれて商業に適している。嘉永七年(一八五四)の竈帳によれば、実竈数三八、人口は男八九人、女八二人、計一七一人。職業構成としては魚屋は魚町以外では営業が禁止されたこともあって四竈ある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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