松ヶ谷村
まつがやむら
[現在地名]成東町松ヶ谷
五木田村の東に位置し、北部を東西に東金道が通る。南東部は海に面し、宿之下浜・中谷之下浜・関之下浜の集落がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に松名村(高二千五八石)とあるのが当村であろう。元和元年(一六一五)の知行宛行状で松谷村の一千石が旗本天野氏に与えられた。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では作田組に属し、天野領のほか旗本藤方領五〇〇石。元禄郷帳では高一千六一三石余。
松ヶ谷村
まつがいむら
[現在地名]海上町松ヶ谷
岩井村の北にあり、集落は北の小南村(現東庄町)に通じる里道沿いに営まれる。慶長一七年(一六一二)九月検地が行われ、海上庄松ヶ谷村検地帳(四冊、木内家文書)では小南村分を含めて草高一五三石余、反別田一〇町九反余・畑一町五反余・屋敷二反余、名請人三七。寛永一二年(一六三五)の松平伊昌の加増分に含まれ、その領知書上(宮内家文書)に松谷村として先高一八〇石余・高一四〇石余とある。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一四八石余で幕府領。
松ヶ谷村
まつがたにむら
[現在地名]池田町松ヶ谷
足羽川と部子川の合流点にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「池田部子谷村」に含まれ、正保郷帳で「部子村」として田方二七石余・畠方一七〇石余とある。貞享二年(一六八五)の「越前地理指南」には「松ケ谷村」と記され、「二ケ所居ス」とあるので、足羽川上流の白粟とに分居していたと思われる。享保六年(一七二一)の池田郷中村々明細帳の写(片山家蔵)によれば、一三町八反余のうち畑が一〇町八反余あり畑地が非常に多い。小物成には山手米・夫米・三杷木役・糠代・藁代・川役・鍛冶役があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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